4.映像メディアの特性

 1)イマジネーション、モチベーション

 これからの大学では教育の質も選別のポイントのひとつであり、「面白い講義、わ かる講義」が「大学にとって十分目玉になりうる」時代になったと言われている。視 聴覚資料の利用の幅も以前とは比較できないほど広がってきた。例えば、ウルトラマ ンのビデオを使って人工知能の話をしている大学教員は「これまで大学の中だけでこ り固まっていた知の開放です。ウルトラマンを入り口にしても学問は学べる、という ことを示したかった」と述べているが10) 、学生の知的興味や学習意欲を呼び覚ます ためのこうした利用法は、前掲(図2)の平沢がいうところの「動機づける(=モチ ベーション)」または「ゆさぶりをかける」といった機能にあてはまるのであろう。
 このような活用事例は文系理系の区別なく増える傾向にあり、各大学の図書館の視 聴覚ライブラリーにも、多様でユニークな要求が寄せられるようになってきたことが 報告されている11) 。
 また、『ビデオで社会学しませんか』(有斐閣)や『人間形成と学習環境に関する 映画史料情報集成』(風間書房)、『パリの文化誌』(潮出版)など、映画を大学レ ベルの教育研究の素材に活用できることを示す出版もつづいている。これにはビデオ ソフトを入手したり、教室で上映することが容易になったという事情もあるが、映像 メディアが時代相や国民性、社会的深層心理といったものをよく反映しており12) 、 それらを横断的に読み解くことで新たな問題の発見が可能となるような文化としての ‘厚み’を持ってきたことが大きな理由であろう。
 20世紀は「映像の世紀」といわれ、人類の文化資産として貴重な蓄積がなされてき た。テレビでも、近年は各局の映像ライブラリーの整備が進み、番組の随所に昔の資 料映像が頻繁に挿入されるようになり、現代社会をしばしば映像でふりかえり映像で ひもとくことができるようになった。
 映像を通じて異国の文化や人々のくらしに触れる機会も増えたが、行ったこともな い国の会ったこともない人々が自分達と同じような豊かな感情や人間性を持っている ことに安心したり、思いやったりするということもしばしば体験されるところである 。かつてマクルーハン(Marshall McLu-han )は、映像メディアは、それがなかった 時代の情報の曖昧さや不確かさがもたらしていた互いの猜疑心を弱め、事物を客観化 し人々を‘クール’にすると言っている。
 映像メディアは、図書・文献情報だけでは伝えきれない、つかみきれないような、 対象の具象的で実感的な内実を与え、より本質的な部分に肉薄した洞察を可能とする 13) 。そして、豊かなイマジネーションをよびおこして人が前へと進む力を与え、ま た他者との相互理解を易しくし、人間的なものとしてくれる。それはもはや人類社会 と不可分なコミュニケーション手段であり、図書館資料としてこれを欠くことは、車 の車輪が片方はずれているようなものだと言えるだろう。

2)アナロジカル

 言語メッセージがその言葉の意味する概念と1対1で対応する「ディジタル信号」 であるのに対し、映像メッセージはその対応する概念との関係のゆるやかな「アナロ グ信号」である。
 このアナロジカルな特性のために、映像メッセージには(時として送り手すら意図 しないような)雑多で膨大な情報(ないしノイズ)が盛り込まれることとなる。ここ に受け手が多様な解釈を楽しみ、あるいは独自に問題を発見したり意味を再構成して みる自由さも生まれる。
 その意味で映像を見ることは楽しい、自己発現的な行為であり、昔よく言われたよ うな一方的受動的なものではなく、むしろ能動的である。その結果得られた概念は、 あたかも自らが考え出した思想であるかのように吸収され次の行動を規定していく。 これを教育に適切に用いれば学習の強い動機づけとなるが、政治的プロパガンダや商 業主義の道具となって、メディアの送り手の隠された意図にまんまと乗せられてしま いかねない危険性も孕んでいる。これは一部の映像だけを見て、それを全体のことだ と思い込みがちなこととも表裏一体な映像メディアの特質である。
 一方では、このアナログ性のために、表現方法が稚拙だったり的確でないと、いっ たい何が言いたいのかわからない、伝えるべきことが伝わらない、という弊害が生ま れる。松岡は「映像を使った表現はとても情報量が多いため(中略)、見る側が制作 者の意図とは異なった情報を得ること」があり得るとし、「パリの凱旋門の映像で彫 刻の部分を説明しているが、学習者は脇を走っている車に興味がいってしまうことも 発生する。(中略)視聴覚機器を駆使して授業を進めたら、学生の集中も反応も良い 授業ができたが、いざ試験をしてみると、普通の授業のときより点数が悪いという事 例があった。これは映像の提示により情報量が多く、学生もつい分かった気になって しまったせいであった」と報告している14) 。
 映像メディアはアナログ信号であるゆえにノイズが大きく、受け手はそこに何が埋 もれているのかを抽出する力が求められる。現代の、むしろ過多ともいえるイメージ の洪水の中で‘何かを漠然と感じている’というレベルにとどまることなく、教師の 指導や図書・文献などの言語的情報の手助けを借りながら、問題を発見して抽象し、 整理・再構築して、自らの言葉で表現していくという訓練が絶対に必要である。とは いえ、これはなま易しいことではない15) 。
 「入社試験を受けにくる学生たちを面接して実感することは、彼らの専門知識が驚 くほどうろ覚えでいい加減で、かつ現実的・具体的であることから程遠いことである 。例えば、経済学部の四年生にバブルとはどういう現象を指すのですか、と質問して みても、きちんと説明できる者はほとんどいない」などという指摘16) は、大学教育 に映像メディアを利用しようとする者にとっても肝に銘ずべきことではないだろうか 。

3)リダンダンシー

 映画やテレビのように、ある時間をかけてシーケンシャルに展開する表現形式にお いては、受け手の時間軸が強制的に束縛される。このような映像メディアの冗長性( =リダンダンシー)は、本を読む速度が可変的かつ跳躍や反復も自由で、通覧性や検 索効率が高いことに比べた場合、たいへん不便さを感じさせるものである。このこと は、映像資料のある部分を引用したくても、その箇所を示す(本の頁のような)標準 的なアドレスを持たないということとあわせ、映像メッセージを掴みどころのない、
一過性的な性向の強いものにしてしまいがちである。これは映像資料が、その貢献度 のわりには学術的資料としての位置づけを低く扱われがちなことの遠因でもあろうと 思う。
 VTRやビデオディスクが登場した頃、筆者はピクチャーサーチやランダム・アク セスといった機能は、その限界性をある程度克服し得る画期的性能であることを指摘 したが17) 、これからはマルチメディア技術が各種メディアを統合し、よりインタラ クティブに駆使できるようになると言われている。こうした技術を進めれば、豊富な 映像資料のストックを横断的に分析することで、その潜在的付加価値を高めていくな どのことには非常に有効なものとなろう。
 例えば、各シークエンスやカットごとに適切なキーワードを与えることで、テキス ト情報と有機的にリンクできるし、映像それ自体を検索キーとする方法も可能となる 。人間の映像的な識別能力は非常に優れていて、ディスプレイの中に9分割や16分割 で表示される多数の映像パターンの連続の中から、求める画像を瞬時に選び取るとい ったこともできるからである。
 しかしリダンダンシーは映像メディアの弱点なのではなく、受け手に対し、まとま った時間的観念や感動を与えるための重要な仕掛けであって、映像表現の身上である 。メディア機器によって映像メッセージを恣意的に切り貼りすることで、それが本来 持つテーマや感動を喪失しかねないことには注意が必要である。
 それにしても、せめて教育用ソフトだけでも、フルスクリプトはつけて欲しいし、 民生用のタイムコードや日本語クローズド・キャプションといったものの普及を願う ばかりである。