3.視聴覚サービス論の検討

 1)視聴覚教育の理論からのアプローチ

 視聴覚教育という言葉は、大学教育の場では必ずしも深く認識されているとは思わ れない。たしかに視聴覚教育のテキストには、「子供たちは…」といった語り口で小 中学生を念頭に考察したものが多く、大学関係者がこれらを読んでも他人事のような 気がするのは無理からぬ面もある。大学の研究教育は独自性が高いので、その方法論 の一般化は困難で意味が薄いとも考えられがちである。とはいえ教育の本質的な部分 が、いずれの学校においてもさほどかけ離れたものとなる理由は見当たらない。視聴 覚教育の理論的背景や歴史のあらましをふりかえるだけでも、大学人が裨益させられ る部分は少なくない筈である。
 さて、「百聞は一間に如かず」(漢書−趙充国伝)などというが、教育における視 聴覚的方法を意義づけたのは、伝統的な唯言語主義的な教育を批判して、デューイ( John Dewey)らが唱えた経験主義的な教育運動であった。彼は1916年の著書『民主主 義と教育』で、「1オンスの経験は1トンの理論にまさる。ことばばかりで組み上げ た理論は、経験の裏打ちがなければことばの公式でしかない」と述べ、耳や目や手に よる学習と思考の重要性を訴えている。
 その最も具体的で有効な手段と考えられたのが映画の実用化であり、視聴覚教育と いう言葉を成立させる契機となった。1910年にはアメリカで早くも最初の教育映画の 目録が編纂されているが、発明王といわれたエジソン(Thomas A.Edison) はこれに次 のような興味深い文章を寄せている。
 「書物は、間もなく学校において時代遅れのものとなります。映画は、学習者にと って、目となるものです。人間の知識のすべての分野で、映画による教育が可能とな ります。われわれの学校制度は10年以内に完全に変わると思います。」
 エジソンのこの予言は外れた。この中の映画という言葉を、ビデオとかマルチメデ ィアと言い換えたところで、将来にわたって正鵠を得ることはないであろう。視聴覚 教育はともすれば言語偏重主義の弊害の逆に、画像偏重主義の弊害を批判されかねな い面もあり、論争を経てきた。現在では言語メッセージと画像メッセージは対峙的な ものではなく、両者の働きが互いに照らし合うことによって、私たちの知識や概念を より豊かで実りあるものにしているのだと考えられている。
 例えば、デール(Edgar Dale)は1946年、有名な「経験の円錐」という図を示し、 人間の認知は直接的・具体的な経験から、種々の抽象化を経て、最後に最も抽象的な 言語象徴すなわち「概念化」に達すると説明した(図省略)が、現在ではこの図は、 多様な教育メディアを活用することによって、この円錐の上昇方向(具体から抽象へ )と、下降方向(抽象から具体へ)の両方向への動きが活発に行われることで教育的 に豊かな経験となる、といった説明に用いられる。
 アメリカの著名な心理学者であるブルーナー(Jerome Bruner)は、人間の思考は、 行為(動作)を基にするもの、映像を基にするもの、言語を基にするものから成り立 つとし、個別の経験が概念化され、概念によって個別の現象に当たって概念を豊かに していく、と言っている4)。
 このような認知と概念化における言語と映像(あるいは行為)の役割関係について は、教育心理学の分野だけでなく、自然科学者やコンピュータの専門家も含めて議論 が続いている。例えば、そもそも我々は「言葉」で考えているのだろうか?とか、非 言語思考のほうが、直観やインスピレーション、言葉では表せないような抽象的概念 を扱っていて、言語思考を越えた高級な情報処理をやっているのではないか?などと いった古くて新しい問いかけが繰り返しなされている。
 いずれにせよ、様々な視聴覚メディア、とりわけ画像メッセージの果たす感性的具 体的把握といったものと、文字・言語メッセージが含む理性的抽象的な把握とが相俟 って、学習者のより深い理解が獲得されるということは認められてよい。これが視聴 覚教育の機能論的な立場である。
 ここで参考までにデールが「映画の特性」についてまとめたものと、平沢が1993年 に「視聴覚メディアの機能」としているもの5)を並べて示す。


   デール「映画の特性」

  a. 動きを含む意味を提示できる
  b. 注意を集中させる
  c. 現実感を高める
  d. 時間を速めたり遅くしたりできる
  e. 遠い過去も現在も教室の中に持ち込める
  f. 出来事も再生容易なかたちに記録できる
  g. 事物のサイズを広げたり縮めたりできる
  h. 肉眼には見えない過去を提示できる
  i. 共通な経験をつくりあげる
  j. 態度に影響を与え変容させることができる
  k. 抽象的な関係の理解を促進できる
  l. 十分な審美的経験を与える

   平沢「メディアの機能」

  1. 伝え合う
  2. 伝える
  3. 活動の様子を見せる
  4. 説明する・発表する
  5. 記録・整理する
  6. 動機づける
  7. 決めさせる・計画させる
  8. 思い出させる・確かめる
  9. 観察させる
 10. 環境設定・雰囲気づくり
 11. 評価させる
 12. 気づかせる
 13. ゆさぶりをかける
 14. 疑似体験・体験させる
 15. 予想・想像させる

 デールのまとめは映画に限らず、映像メディア全般の教育効果をよく指摘している 。平沢のものはその機能により踏み込んだものとなっている。なお平沢はここでいう 視聴覚メディアを、非言語的メッセージを中心に成り立っているメディア(言語的メ ッセージを含まないということでない)のことだとして、印刷メディアや手書きのメ ディアであっても画像中心のメディアは視聴覚メディアだと幅広く扱っている。
 ところで、いくら高い教育効果が見込めるからといって、授業内容とは関係のない 教材を闇雲に見せてよい筈はない。教師は自ずと授業の目的に合致した資料を選定し 、再生用の機材も準備し、それをいつどのように見せるのか、という教授計画を立て なければならなくなる。視聴覚メディアを使うと決めたときから、教師は少なくとも 行き当たりばったりの無計画な授業を展開することはできなくなるのである。これは 視聴覚教育の大きな効能と言える。
 よく練られた教授プログラムとは必然的に、与えた教材は適切か、学習者はきちん と理解できたかなどを常にフィードバックしつつ、教育コミュニケーションの体系の 最適化を図ろうとするものである。そのような態度は、学習者ひとりひとりの個性や 理解力を主体に考える新しい教育観・人間観を補強するものでもある。また、これを 実効あるものとするため、視聴覚資料を組織化し教育機器の利用環境も整備すること 、さらには適切な学習プログラムを考案したり、教授方法の改善指導にもあたるなど のことが組織的に行われる必要もある。ティーチングマシンやCAIなど、必ずしも 視聴覚的ではない教育メディアの登場も背景としつつ、このように教授・学習コミュ ニケーションの体系的計画的な把握と、そのためのリソーセス(資源)6)の組織的統 合を図ることによって、教育の目的をより良く達成しようとするのが視聴覚教育の教 育工学的なアプローチであると言える。

2)視聴覚教育の定義と視聴覚サービス論

 以上のような考え方を総括して、岩崎らは視聴覚教育の定義を次のようにまとめて いる7)。
 a)形態論的定義:視聴覚教具・教材を使って効果的に学習指導を行うこと。
 b)機能論的定義:視聴覚資料の非言語的な要素を用いて人間形成や認識に活かそう とするもの。
 c)教育工学的定義:教育理論と実践の一分野として、学習過程における各種メッセ ージを構成したり活用したりすることに関与するもの8)。
 視聴覚教育はこのようにして、教育方法論の一部門として確立されてきたわけであ るが9)、これを大学図書館における視聴覚サービス論に援用することはきわめて有効 だと思われる。
 すなわち、a)形態論的定義によれば、図書館における視聴覚サービスとは、「視聴 覚資料やこれに係わる機材等を提供するサービス」というほどのことになり、取り扱 うべき幾つかのメディアを併記して説明することになる。実際のところ図書館員でも 、こうした認識の仕方をしている方は多いのではないかという気がする。
 b)機能論的定義に立てば、図書館における視聴覚サービスは「言語的および非言語 的な各種メディアのさまざまな特性を認識し、これらを図書館の仕掛けの中で有機的 に結びつけることで、利用者がより豊かで実りある理解を獲得できるよう支援するサ ービス」とまとめることができるだろう。例えば、図書と視聴覚資料の目録や配架の 混配などはその端的な努力目標となろう。
 c)教育工学的定義から考える場合には、上記の定義に加えて、「図書も含む各種メ ディアの利用環境を統合・組織化し、これらを活用した適切な学習プロセスを提供し たり、そのためのアドバイスなども行うサービス」という、更に積極的な表現をとる ことになる。このことは必然的にメディア・センター論へと議論が進むことになる。
視聴覚サービスのあり方について説明するものであり、大学教育とメディアの問題を 考える切り口となり得るものだと考えているが、後半ではさらに映像メディアの特性 についてもう少し見ていき、図書館資料としての意義についても考察することとした い。