3.マルチメディア時代の図書館員考

 さて、かけ足でいくつかの映像データベース とか、その応用を見てきました。
 ここで、こうしたイメージ情報というものの 情報管理の手法について、もう一度まとめてみ たいと思います。

TP25/マルチメディア環境の概念図

 利用者が、イメージを求めて検索を行う。そ の方法には、分類・キーワード・映像そのもの など、いろいろある。それによって目標を絞っ たら、今度は資料を見てみる必要があります。
 これまでの視聴覚ライブラリーというのは、 目録を頼りに、人間が、倉庫に行ってフィルム やテープという、フルスペックの映像資料のパ ッケージをとり出していました。そういうパッ ケージを、ここでは1次的映像情報とよぶこと にしますが、ただプロが求める映像情報は、さ らにそのオリジナル、写真なら、プリントでは なくて、ネガフィルムが必要ですし、その版権 処理がともなってないと、使いものにならない わけで、そのあたり、1次情報といっても、2 重の意味が隠されています。

(TP26を,25に重ねる)

 これに対して、1台のコンピュータの世界の 中で、何らかの形で映像情報そのもののストッ クを持っていて、利用者が求めると、所在情報 だけではなく、映像そのものを出力してくれる のが、最近のはやりであるわけです。その映像 情報の持ち方というのは、1次情報の複製で、 全部の長さがに渡るものもありますが、場合に よっては部分的な複製やサマリーのこともあり ます。それも幾つかの持ち方があって、映像デ ータを圧縮してデジタル化して持っている場合 と、外部装置に光ディスクなどをぶら下げてい て、アドレス信号を出してやると、プレーヤー が回って映像が戻ってくるという方法があるわ けです。
 また呼び出した映像を、ディスプレイ上で見 られるものと、横にもう1台モニターテレビを 置いて、そっちにビデオ映像が再生されるもの があります。
 とくにそこらへんのシステムを、ここでは狭 義のマルチメディア環境と言っておいても、い いかもしれませんが、まあ、色々な状況である わけで、要するに、いまマルチメディアといわ れているものには、実は、ここまでの範囲の、 こういうシステムが、マルチメディアである、 という明確な定義は、やはりないんだろうと思 っています。
 将来的には、ひとつのコンピュターの中で、 全ての情報が見られるようになるでしょう。
 アラン・ケイという人は、その究極の姿をハ イパーメディアとか、ダイナブックとかいって おります。
 けれども、いまマルチメディアといわれてる ものは、そこにたどり着くまでの中間段階で、 従来の技術をいろいろ寄せ集めて、何とかデッ チあげてるようなシロモノだと言えます。
 しかし皆さんの中には、それでもいいから、 実際に今、マルチメディア・ソフトとかいわれ ているのは、どんなものがあるのか、見せてみ ろという方もいらっしゃるかもしれません。
 本当はそういうデモをここでやればいいんで すけど、はずかしながら私も自分で持ってるわ けじゃないもんで、きょうは日本視聴覚教育協 会が制作したビデオを見て頂いて、その代わり とさせて頂きたいと思います。

ビデオ6/文京文学館

 この文京文学館ですが、実際に市販されてい るマルチメディア・ソフトの中では、いかにも 教科書的というか、きれいごとで作ってあるソ フトだと思います。
 実際、いま立ち上がりつつある、マルチメデ ィアソフトというのは、だいたいゲームとエン ターテイメントが主流でして、最近ではCD− ROMによるヌード写真集が出版されてベスト セラーになっているというような状況です。
 でも、新しいメディアというのは、まずそう やって拡がっていくものだし、だからこそマル チメディアというのは、ひょっとすると本物に なるんじゃないか、という手応えもあるわけで す。
 教育用というのは、結局そういうマーケット が立ち上がったあとに、ついていくしかない面 があるんですね。
 まあ皆さんの中には、いまの文京文学館をみ て、あんなのピコピコやって勉強になるのかし ら、と疑問を持つ方も多いと思います。私だっ てそう思います。
 しかし、今の子供達というのは、こういうメ ディアについて、実に小さいときから訓練され てまして、ピコピコやると、キノコが出てきた りカメが出てきたりするような訓練を実に一生 懸命、幼いときからやってきてるわけです。
 そう考えると、森鴎外の書斎の机の上で、馬 の置物をクリックするなんてことは、まったく 自然なことなのかもしれません。
 そういう彼らが、面白がって使うことで、本 当に知的刺激を受けるというのなら、それはそ れで儲けモンだという気がいたします。
 しかしまだまだ、マルチメディアには、いろ んな意味で限界が多いし、言われているほど、 インタラクティブでもないし、拡張性もないと 思います。ソフトを作る側のノウハウも乏しい ですし、特に著作権のことは、この先、非常に 大きな問題だろうと思います。
 結局、私は、こどもたちに学習の一過程、と くに導入部あたりで、動機づけをするには、こ ういう機械は大変有効だと思いますけど、本当 に知識の広がりを生むためには、その背景とし ての、もっともっと大きな図書館世界の広がり というものも約束されている必要があるだろう と思います。
 そして結局は、図書館の中で今度は人間が自 分の体を動かして、マルチに行動すればいいん じゃないか、それでマルチメディア図書館にな っていけばいいじゃないか、と思うわけです。
 そういう図書館というのは、私は広義のマル チメディア環境と呼んでおきたいと思ってもい ます。

TP27/マルチメディア図書館のあり方

 そうして図書・映像・コンピュータといった メディアが、結ばれて、ひとつのテーマについ て、ある時は映像で、ある時は本を読んで調べ ていくことができる。
 そういうメディアの壁を越えた知的行動によ って、利用者の知的興味がわくわくと拡がって いける仕掛けをつくること。
 それが、これからの図書館の目指すべき方向 だろうと思っているわけです。
 そして図書館員はそういうメディアを良く知 っていて、利用者を支援する責任がある。当然 機械にも強くなければいけないし、同時に、利 用者のよき相談相手でもあるというような、マ ルチ図書館員が求められるくるわけです。
 そんなこと、私しゃやりきれんよ、と皆さん には叱られてしまうかもしれません。
 それはそうなんですけど、そんな時、私は、 あるお話しをさせて頂いてまして、今日も、そ れを最後にしたいと思います。

 皆さんは、アメリカのワシントンにある、米 国議会図書館のことは、よくご存じだと思いま すが、その隣にある、小さな個人図書館、フォ ルジャー・シェイクスピア図書館というリブラ リーのことは、ご存じでしょうか?
 実は、この図書館は、シェイクスピアに関す る第1級資料の収集で、世界的に名高いんです が、その始まりは、創設者、ヘンリー・クレイ ・フォルジャーが、まだ貧しい、青年弁護士で あった時代から、シェイクスピアに関するあら ゆるものを集めてやろうと決めて、そういう資 料を個人的に、コツコツと自分の自宅の地下室 にためこんでいったものなんです。
 それがどれほど徹底したものだったかという と、例えばシェイクスピアの初版本など、大英 博物館さえ、12冊しか持っていないのに、フォ ルジャーは77冊もためこんでいたということで も判るんですが、彼が集めたのは、シェイクス ピアの書物だけではありませんでした。
 台本、楽譜、ちらしといった演劇関係はもち ろん、その時代背景を理解するための実にさま ざまな物、当時の人々の日記とか公文書、衣裳 や装飾品、家具とか指輪とか、杖、短剣、アイ ロンなどなど、とにかくシェイクスピアの人と 時代を知ることのできる、ありとあらゆるもの が溜めこまれていたわけです。
 で、これだけ溜めこみますと、世界中の研究 者が、本国イギリスではなくて、このフォルジ ャー図書館にいかないと用が足せないという状 況になってるわけですが、時には、イギリスか ら、「実はわしが本当のシェイクスピアじゃよ 」といってくる、へんなおじいさんも訪ねてく るんだそうです。
 すでにフォルジャーは亡くなってしまいまし たが、もし彼が生きていたら、きっとその変人 を、大喜びでつかまえて展示しただろう、とい われているそうです。

 さて、私たちが、フォルジャーの情熱に学ぶ べきことは多いと思います。シェイクスピアの 時代に比べれば、今は社会や時代を映した多様 なメディアがたくさんあります。シェイクスピ アは無理としても、トルストイくらいになると 映画も残っています。
 20世紀というのは、まさに映像の世紀であ りまして、人類の文化資産としての、大きな蓄 積がなされてきたわけです。あるいは私たちの 生活のいたるところに、映像文化というのがし みわたっているわけです。
 ですから図書館サービスにおいて、映像資料 の重要性というものを、ことさら強調しないま でも、それらを欠くことは、車の車輪が片一方 外れているようなものではないかな、というこ とは言えると思うんです。

 しかしフォルジャー図書館の話しを通じて、 私が申し上げたいのは、つまり人間が本当に知 りたいことを知りたい、わかりたいという情熱 の前には、それが文献であれ、映像であれ、モ ノであれ、その形や手段は選ばない、という知 的貪欲さこそが大切なのであって、それこそが 全ての情報行動の源なのだということで、それ はもともとマルチメディア的なものではないの かな、ということです。
 そして、もっと問題なのは、実はそういう知 的貪欲さというのが、どうも今の日本の学生の 一人一人から、いやひょっとすると、社会人か ら、何よりも大学の研究者達からさえ、次第に 失われつつあるのではないかという大きな懸念 があることなんです。
 あるいは、なぜこれはこうなんだろう、と自 ら問題意識を持つことが希薄になってきちゃっ たんじゃないか、と。
 そういう個人個人の中で、知的貪欲さが失わ れれば、もう、どんなに図書館が立派になって も、コンピュータがあっても意味ないんです。

 情報化社会というのは、ともすれば必要な情 報をいかに選ぶか、いかに上手に消費するかと いったことのみ強調されがちなのですが、本当 に大切なのは、それは、ただ自分の外側の世界 を正しく理解する、ということだけでは不十分 なのであって、それを理解して、では自分はど うすればいいのかという、感受性と主体性を持 って行動できることが大事なワケです。
 そして人間というのは、実は、自分が一体何 をしたいのか、どうなりたいのか、というのが 一番よくわからないもんなんですね。
 今の世の中には、あまりにも情報が溢れてい て、素敵なイメージが氾濫しています。自分も あぁなりたいな、と真似をしてみる。でも、現 実とのギャップがあって、それはできない。そ こに挫折や葛藤が生まれ、成長もあるわけです けれど、あんまり外界の情報ばかりが多いと、 私達はえてして、自分という存在がひどく小さ な、つまない存在だと思えてきてしまいがちな のです。そのことが、外界に対しての責任感の 希薄さ、そして知的興味の喪失へとつながりか ねないという面がないとはいえない。
 つまり、情報の洪水は、えてして私達が自分 自身について抱くイメージというものを、ちり ぢりに分裂させてしまいかねないということで す。
 そこを、いかに、自分で自分のあるべき姿を 組み上げていけるか、自分についてのイメージ をいかに統合していけるか、というとき、それ は、やはり「知性」というものでしかあり得な いと私は思います。
 そして、そういう情報と刺激のシステムとし て約束されているのは、やはり図書館という仕 掛けである。図書館がもっともその責任を担っ ている。期待されてしかるべき位置に依然いる 筈なのであります。
 そこらへんが、実はマルチメディア時代の図 書館の本当の課題なのではないかな、という気 がしております。
 ですから、マルチ何とかとかいう言葉の意味 すべきところは、マルチな情報処理能力を発揮 しつつも、あくまでも一個人の中ではそれらが 巧みに統合され、調和して、円満な人間性を形 づくっていくこと。そして全体としては、つね に知的な方向性を失わないでいることというの が理想であろう。
 そういう統合的な人間像、自分像というもの のイメージを持つことが、今、改めて大切なこ とではないかと思われ、その時、図書館ででき ることはなにか、というと、それがマルチメデ ィア・パソコンかもしれないし、映像データベ ースかもしれないんですけど、要するにそうい う、ちょっと面白そうな仕掛けというのが、こ れからの図書館には、もっともっと沢山あって いいんじゃないか。そのことで、利用者に知的 な刺激をぶつけていくということが、これから の図書館の最も大事な仕事になってくるんじゃ ないかと、そういう気がしているのです。
 ですから私も、これからはマルチメディアと いう、新しいツールに、ぜひ挑戦していって、 面白い図書館をつくっていきたいな、と、思っ ています。
 そういう新しい図書館のイメージというもの を、何よりも求めているのは他ならぬ私自身で もあるわけです。
 そして、今日ご紹介したような様々な映像デ ータベースの仕事などにも、そのための大切な ヒントがたくさん隠されているんじゃないか、 と思っているような次第です。

 最後に、まとめをしたいと思いますが、今日 のお話しでは、まず、私達の理解や認知に大き な影響をもたらす映像情報の特性。メディアの 重要性についてお話ししました。
 そして、そういうイメージというものをどう やって情報管理していくか、という映像データ ベースの問題や、マルチメディア時代の図書館 の課題みたいなことを考えてみました。
 結局、図書館の仕事というものは、それは。 放っておけば、ただ拡散してしまい、消滅して しまう知識や文化、そしてイメージといったも のを、図書館員の知恵によってつなぎとめる。
 それを利用者が、新しい知識ベースとして再 構築していくことを、手助けしていくサービス なんじゃないかと思います。
 それは、情報過多の時代において、ともすれ ばイメージが分裂しかねない現代人に対して、 統合的な人間像、自分像というもののイメージ を提供していく、そんな仕事でもあるんじゃな いかという気もするわけです。
 そういう、知的で前向きなイメージを追い求 める人々に、私達図書館員はあらゆる支援を、 惜しんではならないだろうし、何よりも私達図 書館員自身が、つねに知的に活性化されていて 、いつもあるべき図書館のイメージというもの を求めつづけていくことを忘れてはならない筈 だ−というのが本日の私の意見であるわけでご ざいます。

 そんなわけで、冒頭にご覧に入れた詩を、こ んなふうに言い換えて、再びご覧に入れたいと 思います。

TP28/
 きれいにさびしい大空よ
 私たちのイメージはみな空に消えてしまう
 それでも私たちは無限にイメージを求めてい る

 ということで、果たしてオチがつきましたか どうか。
 以上で私の拙いお話しを終わらせていただき たいと思います。
 本日はご静聴、ありがとうございました。
【拍手】