1.映像コミュニケーション概論


TP1/きれいにさびしい大空よ
    人間のことばはみな空に消えてしまう
    それでも私たちは
    無限にことばをもとめている

 東京情報大学の伊藤でございます。ただいま ご紹介いただきましたように、大学図書館の視 聴覚サービスの研究会を10年ちょっとやって おりました関係で、本日、ご指名を頂いたよう でございます。
 そんなわけで今日は、最近、図書館の世界で も少しづつ関心が高まって参りました、映像デ ータベースですとか、マルチメディアとかいっ たことをキーワードにしまして、私の研究会活 動で見てきたことなどをご報告させて頂こうと 思って、おじゃまさせて頂きました。
 よろしくお願い申し上げます。さっそくスク リーンの方をご覧下さい。機械の操作がありま すので失礼して着席させて頂きます。
 最初にちょっと気取ったのを出してしまった んですが、

 きれいにさびしい大空よ/人間のことばはみ な空に消えてしまう/それでも私たちは無限に ことばをもとめている

 ある中学の国語の教科書に載っていた詩です が、きょうはこれを枕にしまして

 「それでも私たちはイメージを求めている」

というあたりまで、何とかこじつけてみたいと 思ってるんですが、はたしてうまくいきますか どうか、というところです。
 早速ですが、今日の第1章、映像コミュニケ ーション概論というのをやりまして、今日のテ ーマの基礎的な部分を整理しておきたいと思い ます。

TP2/
 百聞は一見に如かず(漢書−趙充国伝)
 1オンスの経験は1トンの理論にまさる
   (ジョン・デューイ「民主主義と教育」1916年)

 さて、視聴覚情報の特性というのを、一言で いえば、それは「百聞は一見に如かず」という 言葉につきるんですけど、これをあちら風にい いかえますとジョン・デューイのこんな言葉に なります。彼は
 「1オンスの経験は1トンの理論に優る。こ とばばかりでくみ上げた理論は、経験の裏打ち がなければ、単なることばの公式でしかない」 と言って、耳や目や手による学習と思考の重要 性を訴えました。
 このデューイの経験主義理論というものが、 現在の視聴覚教育の理論を最初に意義づけたと いうふうにされているわけですが、こうした主 張というのは、それこそコメニウスの時代から いわれていたことですが、それが教育理論とし て重きを増したというのは、やはり映画の登場 ということが、やはりまったく画期的なことで あったわけです。
 いわゆる映画の発明者といわれるトーマス・ エジソンですが、彼は1910年に、このような予 言をしています。

TP3/トーマス・エジソンの予言
 −書物は間もなく学校において、時代遅れの
ものになります。映画は学習者にとって目とな
るものです。人間の知識のすべての分野で、映
画による教育が可能となります。われわれの学
校制度は10年以内に完全に変わると思います。

 いま振り返ってみると、この予言は完全にハ ズレですね。映画が生まれて 100年、学校制度 も教科書もたいして変わっちゃいません。映画 という言葉を、テレビとかビデオとかに言い換 えてもやっぱりハズレですよね。
 で、これを「マルチメディア」という言葉に 置き換えたって、やっぱり外れだろう。マルチ メディアといえども、それはそうなんだろうと 私は思います。
 このトーマス・エジソン、俗に発明王などと いわれてますけど、実はそれは全くの虚像であ って、本当は他人の発明を横取りして、自分の 名前で特許をとってしまうみたいなことをいっ ぱいした人です。映画にしても本当はエジソン が発明したとはとても言えないんです。
 しかし、それでもエジソンの偉大なのは、彼 には新しい技術や発明について、その使われ方 とか、社会的影響といったソフトの面では、非 常に先見性のあったんですね。
 この「映画は教科書にとってかわるでしょう 」という言葉も、それは本当にはならなかった にしろ、映画という新しいメディアを社会に喧 伝する見事なキャッチコピーだ、とは思うんで す。そういうコピーライターとしては、エジソ ンは確かに天才でした。はったりの天才といっ てもいいかもしれません。そういう人物という のも、実は社会を進歩させる上では重要な役割 を果たすもんなんですね。
 いま、マルチメディアについての、色んなキ ャッチコピーを見てみると、私はエジソンのこ の言葉というのは、まさに今、ほうぼうでいわ れてることと同じだなぁ、と妙に感心してしま います。
 まぁ、こんなふうに、デューイの経験主義を 母親とし、エジソンのはったりを父親として生 まれたメディア教育の理論。その真骨頂が、エ ドガー・デールの「経験の円錐」というものに なってくるわけでして、ああこれなら知ってる よ、という方も多いと思います。

TP4/経験の円錐

 デールは人間の認知というものは、直接的・ 具体的な経験を一番のベースだとすると、その 上の疑似的な体験とか、映画やテレビを通じて 得られるものでは次第に抽象性が高くなってい く。そして一番抽象性の高いレベルが言語象徴 だという、こんな絵を描いたわけです。
 そして、人間の知識や概念というのは、この 円錐を、ある時は上昇し、あるときは下降して いくうちに、次第に確かなものになっていくん だ、というわけです。
 要するに、教育というのは、文字や言葉だけ に偏らず、さまざまな体験学習とか、多様な教 材を活用することで、生徒の思考が、具体から 抽象へ、抽象から具体へと渡っていく過程であ る。そうやって経験の円錐の中で上がったり下 がったりすることで、概念や思考が練られてい くことが、教育的に豊かな経験だと言えるので あって、それによって好ましい思考の発達が図 られるとしたわけです。
 波多野完治は、デールの考えを批評的におし 進めて、視聴覚メディアによる教育の目的とい うものを

TP5/
・波多野完治の視聴覚的方法の定義
 −理性的把握を与えるために、言語をともな うゆたかな感性的体験をあたえるもの

・マルチメディア学習
映像−豊富な情報量・強い感性的訴求力(具体)+言語−理性的な把握(抽象)=真の理解(車の両輪)

 「理性的把握を与えるために、言語をともな うゆたかな感性的体験をあたえるもの」だと言 っています。
 結局、こうした考え方をまとめてみると、様 々なメディア、とりわけ映像のもつ豊富な情報 量と強い感性的な訴求力といったものが、文字 ・言語情報を含む理性的な把握と結びついたと ころに真の理解が生まれる、ということを、言 ってるんだろうと思うんです。
 そして、マルチメディアの教育的意義という のも、正にそこらへんにあるだろうと思うんで す。

TP6/マルチメディアの教育的意義
 ・文字・図形・映像・音響…を統合的に扱う
  −調和のとれた多様なメディアの活用
 ・インタラクティブ(対話型)である
  −多角的に短時間に多くの情報に接する
 ・具体から抽象、抽象から具体…と渡り、豊
  かな感性的体験と理性的な把握が得られる
  −真の理解と学習の主体性の獲得を支援

 いま、マルチメディア・パソコンとか言われ てるもののセールス・ポイントは、要するに一 つのコンピュータの中で、文字だけでなく、映 像や音やカラーグラフィックなんかが、統合的 に扱うことができますよということです。
 これを教育的に見れば、一台のコンピュータ の中で、多様なメディアが調和のとれた使い方 をされる。そのことで、豊かな感性的体験と理 性的な把握というものが、多角的に、しかも短 時間に得られる。それによって、真の理解と学 習の喜びが得られ、学習者の主体性が獲得され る。そういう学習支援ツールだというのが、マ ルチメディアの教育的意義であるというふうに まとめられると思います。
 で、そういう考え方というのは、実は従来の 視聴覚教育の理論とも、実はかなり共通するも のでありますし、あるいは図書館の視聴覚サー ビスの意義といったものにも敷衍できることな んじゃないかと思うんです。
 だから、マルチメディアというものを考える 時にも、いささか古典的ですが、デューイとか エジソンとか、デールといった人々が、昔、映 像についてどんなことを言ってたか、というあ たりのことは、知っててもいいんじゃないかと 思いまして、最初にちょっとおさえてみたわけ です。
 そこで、映像コミュニケーションの特性とい うものについて、ここではデールがまとめた「 映画の特性」というものをとりあげてみようと 思うんですが、

TP7/デールの「映画の特性」
・動きを含む意味を提示できる
・注意を集中させる
・現実感を高める
・時間を早めたり遅くしたりできる
・遠い過去も現在も教室の中に持ち込める
・事物のサイズを広げたり縮めたりできる
・肉眼には見えない過去を提示できる
          :

 云々、と、これらが、それぞれどんな映像の ことを述べたものなのか、次にビデオなどみな がら、例証していきたいと思います。

VTR1/映像の力

 (ヘンリーアルカン)
 これはヘンリーアルカンという18世紀の画 家の絵なんですが、この馬の走っている姿、空 中で足を前後に突っ張ったこの状態というのが 当時、馬を描くときの一つの決まりごとであっ たわけで、昔は馬というのはこんなふうに走る ものだとハナから信じられていたわけです。

 (マイブリッジ)
 ところがエドワード・マイブリッジという写 真家が、ある時、馬の足が4本とも地面から離 れることがあるかどうか、というカケを証明す るために雇われまして、彼は馬場の中にカメラ を横に並べて、走る馬の姿の連続撮影に成功し たわけです。
 それで馬の足は4本とも地面から離れる瞬間 がある、しかしそれは昔の人間が考えていたみ たいに空中で足を開いてつっぱった状態ではな くて、内側に折り畳まれて宙に浮いてる、なん ていうことが初めて明らかになったんですね。
 要するに、人間の肉眼というのは、馬が走る スピードくらいになると、もう正確にはそのイ メージを捉えることができないものなんです。

 (植物の成長)
 1998年、ドイツの生物学者、ビルフェル ム・ステファーは、11日間のマメの成長を数 十秒間に縮めました。
 エンドウマメのツルの運動。ヒルガオのツル と出会うと、ライバル同志、まくかまかれるか の戦いを繰り広げます。
 自然界のあまりに緩慢な動きをスピードアッ プして、植物のダイナミックな生育状況をとら えることができます。
 人間の目でも見えてはいる。けれども、あま りにもゆっくりとした変化、それが映像を通し て見ると、まったく新しいイメージとしてとら えることができます。

 (人間の成長)
 これは、ある男の子の顔を1年に1枚づつ撮 影して連続写真にした映像ですが、みてると目 のワキにホクロがあらわれて、それが顔の中を 自由に動きまわっていくのが面白いですね。

 (高速度撮影)
 逆にあまりにも一瞬の目にもとまらない速さ の出来事も、高速度カメラによって、イメージ に定着することができます。ポタンと落ちたミ ルクの一粒が作りだす王冠のような形。水玉な んていう表現は、実はこうした映像イメージか ら生まれたものなんですね。

 (ミクロの世界)
 あるいは、一粒の水滴の中に拡がるミクロの 世界、家のタタミの中に必ず住んでいるダニ、 その電子顕微鏡で見た怪獣みたいなすがた。
 さらには皆さんの睫毛の根元に必ずいる小さ な菌、デモデクッス・ホルキュロールムという 生物ですが、これなど人間には無害であるとい うこと以外その生態は殆どわかっていません。
 でも皆さんの睫毛の中に必ず住んでいるんで す。

 (透視撮影)
 映像は見えないものを見ることもできます。 例えば温度というものを見たり、生物の体の中 を覗いたり、その方法も、X線もあれば、超音 波もあれば、最近ではCTスキャンなど、コン ピュータの技術を応用したものも花盛りです。

 (CG)
 コンピュータグラフィックスは、大気の複雑 な運動を、判りやすい姿で示してくれますし、 人間が立ち会うことのできない、長い時間の変 化を表現してくれたりもします。かなり長生き な人でも、アルプス山脈が隆起して、やがて浸 食されていくのを見届けるのは難しいわけです ね。

 (教育利用)
 また映像は、言葉では説明しにくい概念や知 識といったものを、直観的に把握してもらう上 でも、優れた表現力をもっています。だから、 映像イメージというのは、教育効果という点で も非常に大きなものがあるというわけですね。

TP/7(再び)

 こんなふうに見てくると、デールの映画の特 性というまとめ方も、それぞれがどんな意味だ ったのか、改めてお判り頂けたんじゃないかと 思います。
 言ってみれば、こういう映像情報によって、 人間の知覚−人間が抱くことのできる外界のイ メージというものは、急激に拡大したわけです し、それがひいては人間の自然観や社会観、哲 学や文学といった領域をふくめて、人類社会に も大きな影響を与えたことは確かだと思います 。
 結局、映像情報というものは、自らが科学の 産物であるとともに、映像それ自体が、科学や 文化を大きく進歩させていく力をもったものだ ということも、理解できると思うんです。
 勿論、その力は、ただ科学や教育に貢献した だけではありません。
 デールも指摘しているように、映像には、「 共通な経験をつくりあげる」「態度に影響を与 え変容させることができる」といった力がある わけでして、これらが時として政治プロパガン ダとして利用されたり、マスメディアとして私 達の生活に多大な影響を与えているわけでして 、ここに「イメージ」という問題がさらに大き く提起されてくるわけです。

スチルビデオ1/映像論序説

 (人生2つの道)
 もとよりカメラというのは、絵を描くための 道具として生まれたところがあります。例えば この写真は、十数人のモデルにそれぞれポーズ をつけた写真を撮り、それを切り貼りして1枚 の宗教画のようにしているんですが、そういう 表現方法は、写真にとって、最初から、決して 珍しいものではありませんでした。

 (FRONT)
 先の大戦で、日本は、日本軍の威容を海外に 誇示する為、豪華写真雑誌FRONTというも のを発行して占領地に配っていました。その中 に陸軍の戦車部隊の写真が載っていますが、実 はこの写真は1台の戦車の写真を何枚も切り貼 りしてデッチあげた幻の大戦車部隊でした。

 (毛沢東)
 写真から消される人もいます。1958年に 撮影された、毛沢東と当時の北京市長ですが、 北京市長は後に江青女史に疎まれて写真の中か ら消されてしまいました。

 (警棒)
 逆に付け加えられるものもあります。これは 1963年にパリで撮影された、デモの取り締 まりの写真ですが、編集者は何か今ひとつ、こ の写真が迫力に乏しい気がしたらしく、この写 真がある新聞に掲載される時には、警棒が描き 加えられてしまいました。

 (ベトナムの母子)
 写真の映像を加工したのではなくて、その状 況をヤラセで作ってしまうことも、しばしば問 題になります。ベトナム戦争の惨状を撮って、 1975年のニューズウィークの表紙を飾った この写真。実はこの婦人の手元に、紙幣が握ら れていることがわかりまして、どうもおかしい んじゃないかといわれたケースです。

 (意思の勝利)
 映画をつかった大規模なプロパガンダといえ ば、ヒトラーが、レニ・リーフェンシュタール という気鋭の女性監督を起用して、1933年 のナチス党大会の模様を感動的な記録映画に仕 立てた「意思の勝利」という映画が有名です。 この映画でナチス・ヒトラーの威容は、ドイツ 内外に強く誇示されることになりました。

 (新しき土)
 日本もいろんな国策映画を作りましたが、、 これは伊丹ジュウゾウのお父さん、伊丹万作と ドイツのアーノルド・フランク監督が共同制作 した「新しき土」という日独合作映画です。
 ドイツ留学帰りの日本人青年と、ドイツ人女 性、日本人女性の3角関係を描いたメロドラマ で、当時16才の原節子が鮮烈なデビューを飾 りました。
 この映画が制作された昭和11年は、日独防 共協定が締結された年でしたが、この映画の最 後では結局、青年は原節子と結婚して満州の開 拓農民になります。その農場を守ってる日本人 兵士のアップがラストシーンでして、つまり農 民と兵士が一体となってソ連に対抗している日 本というイメージをドイツの人々に知らしむる 目的の映画であったわけです。
 この作品は、ドイツで公開されるや空前の大 ヒット作品となりました。原節子はドイツに行 って、人々の熱烈な歓迎を受けることにもなり ます。

 (イエローフェイス)
 こうした、メディアを通じて、ある国民に対 してのイメージを植えつけるというのは、意図 的であれ、そうでない場合であれ、世界中に見 られる傾向です。
 戦前のハリウッド映画で日本人を登場させる ときには、白人が日本人の役を演じることが珍 しくありませんでしたが、たまに日系や中国系 の俳優がリアルに演じるときには、大抵はひど い悪役イメージで描かれることが多かったわけ で、こういうコミュニケーション・ギャップを 生むイメージというのも、たいへん多くの問題 を含んでいると思います。

 結局、映画というのは、その時々の国民感情 を最も率直に映し出す鏡のようなものではない か、と言えると思います。
 そこにはある人種とか、ある職業とかいった ものについて人々が抱いているイメージという のが端的に表現されています。
 実は、私も映画に出てくる図書館員というも にについて調べてみたんですが、これがまた、 妙に暗くてカタブツで、その癖ヘンにいじけて て、といったイメージばっかり多くて、えらく がっかりさせられちゃうんですね。

ビデオ2/映画の中の図書館員(3本)

 (ガス人間第1号)
 これは「ガス人間第1号」という昭和35年 の東宝のSF映画で、主人公が図書館員です。

 (幸福物語)
 これは幸福物語という昭和60年のアニメ映 画。主人公のペンギンは、心にキズを抱えてま して、流れ着いた町であっさり図書館員になっ てしまいます。

 (コナン・ザ・ライブラリアン)  これはあるパロディー映画の一部分で、図書 館員のイメージを逆手にとったものですね。

 まあ、こんなのを見てたらキリがないんです けど、ようするに世間の人々が他人の職業につ いて抱くイメージというのは、まあこの程度の 理解の上で成り立ってると言ってもいいんでし ょう。
 ただ図書館員が、気の弱い本の虫だなんてイ メージばっかり拡がってしまうと、本当にそん な人ばかり図書館員になってしまうんで、それ じゃやっぱり困るんですが、では、そうじゃな いんだ、こうなんだ、というイメージを、私達 図書館員はいま、示せるでしょうか?どんなイ メージなら、それでは、私達の理想とする図書 館員像として、抱いているでしょうか?
 実は、それがイメージというものの、本当に 大きな問題なのです。
 自分の会社なら会社、大学なら大学、図書館 なら図書館において、自分は、自分達は、未来 に向けてどういうイメージでもって、自分像を 描いていきたいのか?自分の仕事や人生にどう とりくんでいきたいのか?自分は何をしたいの か?どうなりたいのか?っていうイメージを持 つことができるかどうか。それがいま、非常に 問われていると思うのです。
 それで、CMなどでも、いわゆる企業イメー ジとか業界イメージというものを扱ったものに 力が入れられるようになってきているわけです ね。

TP8/お父さんの仕事 1
 お父さんの作った橋が地図に載ってる

 現に、3Kなんて言われている建設業界なん かは、莫大な費用を使ってイメージチェンジを 図っているわけでして、最近では、「お父さん の作った橋が地図に載ってる」なんていう、ゼ ネコンのコマーシャルなんかも、記憶に新しい ところです。

TP9/お父さんの仕事 2
 お父さんのしでかした事件が年表に載ってる
 もっとも、このマンガには、こういうオチが ついてまして、「お父さんのしでかした事件が 年表に載ってる」っていう、まあ最近のマンガ の中では一番面白かったんで、ちょっと持って きました。
 もっとも、実は私の父も、ゼネコン関係に出 ておりまして、わが家ではこのジョークは笑え ないのですが…。


 それにしても、映像メディアとイメージとい う問題は、本当に奥が深くて、色々難しいこと がいわれています。それらの理論をここでご紹 介することはできませんけれど、ひとつだけ、 こんなエピソードをご紹介しておきたいと思い ます。

TP10〜13/3枚の牛の絵 1〜 4

 ある時、メキシコの砂漠のハイウエーを走る と、こういう絵の描いた大きな看板が3枚、立 っていたそうです。
 その絵というのは、まあ話しによると、1枚 目というのは、だいたいこんな絵であったよう なんですね。2枚目はこう。3枚目はこうだっ た、ということらしいです。
 これはまぁ、当時の政治的な背景を知ってる 人には、何のことを言ってるか、わかるもので あったようですが、要するに、今は小異を捨て て大同につこう、みたいなメッセージだろうと 思うんです。
 で、このことを見て、ある哲学者がこんなこ とを言っています。

TP14/サルトルの言葉
 (映像メディアは)それを見た人間が、その メッセージを、あたかも自らが考え出したかの ように錯覚される

 映像メディアというものは、それを見た人間 が、そのメッセージを、あたかも自らが考え出 したものであるかのように錯覚して、信じて、 行動するんだということです。
 つまり同じことでも、言葉で言われると、人 間はそりゃ違うとか、反発したりもするんだけ ど、映像で示されると、その中にあるメッセー ジというのは、見る側としては、自分の主体性 のもとに解読してると思いがちなんですね。
 そのとき、あたかも自分が、自分の頭で、そ の思想を考え出したものであるかのような、一 種の喜びさえ覚えてしまい、やすやすとそのメ ッセージをうけとめてしまう。
 そこらへんのメカニズムが、「映像メディア には、強い動機づけの力がある」といわれるこ との、一つのカラクリではないかと、私は思っ ています。
 ですから、その力を上手に使えば、生徒の学 習意欲をものすごく高めることもできるし、そ れがマルチメディア教育の目的でもあるんです けど、一方では、常に送り手の隠された意図に 騙されてしまいがちな面も抱えています。
 現代の商業主義と結びついた様々な広告メデ ィアは、益々巧妙かつ複雑に仕掛けられて、私 達の生活に浸透しています。
 だからこそ、私達は、そういうメディアの力 を、よく知っていなけらばならないワケで、メ ディア・リテラシーと言われる能力が大切にな ってくるわけです。
 図書館の中で、色んなメディアが利用される ようになると、私達も高いメディア・リテラシ ーを備えて、常にこうした問題を考えていくこ とが必要になるだろうと思います。
 実際、今度のテレビ朝日の報道局長の暴言問 題なんかにしても、メディアの問題として非常 に興味深い点があるわけでして、ああいったコ トにも、これからの図書館員は、当事者意識を 持って見ていくべきじゃないかと、思っている わけです。