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11 ネパール映画研究の意義



▲マネドバン村で、村民から映画鑑賞体験について聞き取り調査をおこなう伊藤敏朗

ネパール映画を研究することは、独特な歴史的、政治的な背景を原因とする特殊性が明らかになるのと同時に、このような特異性がありながらも、映画という芸術文化の有する世界的な普遍性や特質も見出せるところに意義がある。

ネパールの映画産業は製作から興行に必要な全てを一貫して行うことのできる資材と人材が備わっており、映画のための法律と行政、組織化された職能団体、大学の映画学部、映画雑誌と映画ジャーナリズムなどがあり、映画スターがいる。 そしてこれらの存在を支えているのは、映画を熱く愛する国民であり、背景となるネパールの豊かな文芸世界、精神世界である。ネパール映画における問題は、世界の映画の問題の縮図であり、世界の映画はネパール映画のあり方から学ぶことができる。

やや逆説めくが、ネパールにおいて、1949年まで、ラナ専制が自らの独裁体制を維持し、映画によって国民が啓発されることを抑止するために、一般の国民が映画へ接触することを厳しく禁じていたことは、ラナが、映画には人間性を覚醒させる本質的な力があることをよく理解していたことの証左のように思われる。

その即物的な理由は、「ネパールの国民が外国の映画を見れば、それらの国ではすでにネパールのような独裁政治や統制が行われていないことを知られてしまい、彼らが民主化に目覚めることを怖れた」ことにあった。

しかし、国民が映画に触れることのより深い意味は、観客が映画の中の登場人物に共感を抱き、登場人物がおかれている状況について思考させられる装置だという点である。すなわち映画とは「感情を込めた主観的世界認識(長谷)」を与えるものであって、映画を観るという行為は他者と自らに対する想像力や共感力を高め、人間的な感情や思想が生じること、すなわち人間性そのものを覚醒させるものだということを、ラナは直感的に理解していた、だから怖れたのだということができる。

本研究において、このような映画の登場人物に感情移入する力は、ネパール映画の観客に、ことに強く観察されるということがわかった。だからこそ映画はネパールの人々の心情に優れて同調する装置となり得たのであり、ネパール人が映画が好きであることの理由の一つの説明にもなり得よう。このような映画への感情移入の強さは、社会制度への批判的視点を見失わせるという指摘もあるが、「21世紀の人間が、もう一度豊かな情動の世界を取り戻す(長谷)」ための大切な扉を開くものだと考える。ネパール映画とその観客に触れたことで、この思いは一層深いものとなった。