ネパール映画研究のページ ネパール映画研究のページ



4 初期ネパール映画史のトピック



▲1951年D.B.パリヤによって作られた初のネパール語映画“Satya Harishchandra”サッティャ・ハリスチャンドラ:真実のハリスチャンドラ王)の一場面とされるスチル写真.当時の政府はこれを‘ネパールの第1号映画’として認めたくなかったために、その存在が黙殺されたという見方がある.

(a)ネパールにおける最初の映画上映

ネパールの王宮内では、最初期から映画上映が行われていたが、国民は映画から隔絶され続けた。例外的なケースは、1901年、ラナ宰相デーブ・シャムシェルが、そのわずかな在任期間(114日間)の中で、カトマンズのトゥンディケル(大広場)で1週間、公衆のための無声映画の無料上映会を行ったことである。

FDB(情報通信省映画開発委員会)の公式冊子では、ネパールにおける最初の映画上映は1933年、シン・ダルバール(王宮)で行われたとされているが、それ以前にも、王宮内で少なくない回数の映画上映が行われていたとする証言や記述がある。

(b)王宮内で1940年代に使用された小型映画カメラ

現在、ハヌマン・ドカ博物館に所蔵されている王宮内で使われていたとされる小型映画カメラは、ともに、1940年代製であることから、当時、王宮内やネパールの国内外で、王室やラナ家の人々が私的な映画撮影を行なっていた可能性が高い。

(c)トニー・ヘーガンによるコメディ・シーンの演出

スイスの地理学者、トニー・ヘーガン(Toni Hagan)は、1950年から1958年にかけてネパール国内の地学的調査を行い、16ミリカメラによる記録を残した。これが現在、確認できる、動く映像に記録されたもっとも古いネパールの姿である。同作品を調べたところ、この中には幾つかの演出されたカットがあり、ヘーガン自身が出演して朝寝坊のネパール人のテントをめくりあげる場面は、ネパール国内で撮影された意図的かつ映画的に演出された最初のコメディ・シーンであった。

(d)日本の登山記録映画の製作・公開

日本の登山隊によって、1954年に実施された第2次マナスル登山隊の記録は、『白き神々の座』(依田孝喜撮影、高木俊郎演出、日活配給)として1954年11月に日本で公開された。ネパールの風物を記録した映画として劇場公開されたのは、本作が世界初である。

第3次隊の記録映画『標高8125米 マナスルに立つ』(依田孝喜撮影、山本嘉次郎演出、毎日映画社・映配配給)は、これに次ぐものであるとともに、今西寿雄隊員がマナスル初登頂を果たしたショットは、ネパール人シェルパのギャルツェン・ノルプによって撮影された、当時の世界最標高で撮影された動画像だった。

(e)D.B.パリヤの“Satya Harishchandra”

1951年7月(B.S.2008年Asadh)、インドのカルカッタに住むネパール人、D.B.パリヤ(D.B.Paliyal)が、“Satya Harishchandra”(サッティャ・ハリスチャンドラ:真実のハリスチャンドラ王)というネパール語による映画を完成したとされる。ネパール語で製作された最初の映画と考えられているが、確かな記録は不詳である。

パンチャヤト体制は、映画を体制のプロパガンダの重要な手段として管理しようとしていたが、“Satya Harishchandra”は、その統制から外れた存在であり、当時の政府としてはこれを‘ネパールの第1号映画’として認めたくなかったために、その存在が意図的に矮小化され、謎の映画というより故意に黙殺された映画であったという見方がある。

(f)ヒラ・シン・カトリの3部作

1950年代にインドで映画監督をしていたヒラ・シン・カトリ(Hira Singh Khatri)は、マヘンドラ国王の招聘に応じて、1961年からの10年間、パッチャヤト体制の宣伝のための数多くのニュース映画と、3本の劇映画“Aama”(1965)、 “Hijo Aaja Bholi”(1967)、“Pariwartan”(1970)の製作を手がけた。

ヒラ・シンは、ネパールで多くの映画人を育て、揺籃期のネパール映画の立ち上げに大きな功績を残した。

(g)ロイヤル・ネパール映画公社

1971年、国産映画の振興を図るために、国策会社であるロイヤル・ネパール映画公社が設立され、公社自らが製作して国際映画祭への参加作品や娯楽ヒット作品を生んだ。 第2作“Kumari”(1977)はネパール初のカラー劇映画であり、また国際映画祭に出品された初めてのネパール映画となった。第3作“Sindoor”(1980)は興業面で多大な成功をおさめ、ネパール国産映画の萌芽といえるものになった。