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3 ネパール映画史の特徴



▲ネパールの映画産業は政府のコントロール下におかれる.現在の映画行政は、情報通信省傘下の映画製作委員会(FDB)が一手に担っている.写真はサラサワティ・ナガルにあるFDBの庁舎.200席の試写室やフィルム・アーカイヴがある.

ネパール映画史の最初の特徴は、ラナ家による専制政治が、自らの独裁体制を維持し、映画によって国民が啓蒙されることを抑止するために、一般の国民が映画へ接触することを厳しく禁じていたことである。

1951年にラナ専制体制が崩壊して王政復古が果たされたが、国王政府は、絶対王政体制(パンチャヤト体制)構築のための情報統制をおこない、映画を利用した。国王の主導によって、インドの映画監督ヒラ・シン・カトリを招いて製作された3本の国産劇映画は、いずれもパンチャヤト体制を宣撫するためのプロパガンダ映画だった。

1971年、ロイヤル・ネパール映画公社が設立され、公社自らが製作して国際映画祭への参加作品や娯楽ヒット作品を生んだが、ネパール映画を産業として発展させるまでにはいたらなかった。

1980年以降、映画公社との共同製作を含め、民間の映画会社による映画産業への参入が増え、毎年、ネパール映画が公開されるようになったが、この時代においても国王政府による情報統制は続いた。ロイヤル・ネパール公社は、国内の映画振興策にあたるいっぽう、外国メディアの国内での撮影にはリエゾン・オフィサー(政府連絡官)を派遣して、ネパールの後進性や非民主的政策が映し出されることがないよう監視にあたり、「ヒマラヤの懐に抱かれた素朴で平和な王国」というネパールの牧歌的イメージばかりが世界に発信された。

1990年の民主化以前のネパール映画は、このような国家による甚大な関与が特徴であり、表現の自由の抑圧のもと、ネパール映画は社会性に乏しく大衆娯楽的要素の詰め込まれた「マサラ・ムービー」の様式に占められた。

その後も、ネパール映画の状況は、民間映画会社の経営基盤が脆弱で、政府による映画行政に主導されるという、発展途上国特有のあり方をつよく残している。