ネパール映画研究のページ ネパール映画研究のページ



2 ネパール映画史の歴史区分



▲ラナ政権は民衆が映画に接触することを厳しく制限していたが、1949年12月12日、一般民衆も入場することができる官製映画館「カトマンズ・シネマ・ガル」がオープンした.この写真は1950年 デジ・バハドウール・カヤスタによって撮影されたもの(ブサン・シュレスタのコレクションから).

ネパール映画史はおおむね以下のように歴史区分できる。

1 黎明期(1901〜1960年) 映画の規制から初めての映画との接触までの時代
2 揺籃期(1961〜1970年) 国王主導による国家宣伝映画の時代 
3 萌芽期(1971〜1980年) 国策会社(映画公社)による劇映画製作の模索の時代
4 発達期(1981〜1990年) 民間映画会社による映画製作への参入開始の時代
5 成長期(1991〜2000年) 民主化以降の映画製作急増の時代
6 転換期(2001〜2010年) 内戦による市場縮小から政情安定化にともなう回復の時代

発達期の終わり(1990年)までの、ネパール映画の公開本数は49本とわずかだったが、90年民主化運動(ジャナ・アンドラン)による民主憲法公布(1990年11月)後には大きく増え、2010年末までのネパール映画の公開本数の累計は600本を超える。


ネパール映画史の概略

1 黎明期(1901〜1960年) 映画の規制から初めての映画との接触までの時代

ラナ専制体制の為政者は自らの王宮内で映画の上映を愉しんだが、国民が映画へ接触することは1949年まで禁じられた。

1949年12月12日、カトマンズに官製映画館「カトマンズ・シネマ・ガル」がオープンし、最初の上映作品は、ヒンディ語映画の“Ram Vivaha”であった。

1950年代には、スイス、日本、アメリカなどの外国人によって記録や観光のための映画が撮影された。

1951年に、インドに住むネパール人のD.Bパリヤが、ネパール語による初めての劇映画“Satya Harishchandra”を製作した。この映画のネパール国内における公開については確かなことがわからない。



2 揺籃期(1961〜1970年) 国王主導による国家宣伝映画の時代 

王政復古によって実権を回復した国王とその政府は、インドの映画監督ヒラ・シン・カトリを招いて国産映画の製作を開始した。

多くのニュース映画のほか、3本の劇映画“Aama”(1965)、“Hijo Aaja Bholi”(1967)、“Pariwartan”(1970)がヒラ・シン・カトリの監督で製作されたが、いずれも絶対王政政治(パンチャヤト体制)を宣伝するための作品だった。



3 萌芽期(1971〜1980年) 国策会社(映画公社)による劇映画製作の模索の時代

1971年に国策会社であるロイヤル・ネパール映画公社が設立されてニュース映画を製作したほか、公社自らが劇映画製作をおこない、第1作“Man Ko Bandh”(1974)、第2作“Kumari”(1977)、第3作“Sindoor”(1980)を公開した。

“Sindoor”は興業面で多大な成功をおさめ、ネパール国産映画の萌芽といえるものになった。



4 発達期(1981〜1990年) 民間映画会社による映画製作への参入開始の時代

ネパール語で製作されたインド映画やネパール国内の民間会社による作品も徐々に増え、公社作品の“Jeevan Rekha”(1982)、オム・プロダクションの“Kanchhi”(1984)などのヒット作が生まれ、娯楽としての映画産業の基盤が形成された。

人々に受け入れられる映画は、似たような設定のラブストーリーに、歌と踊り、アクションとコメディが盛り合わされたマサラ・ムービーであることが多かった。

1979年にVTRとテレビの個人所有が許可されて、VTRによる映画上映をおこなう個人営業のビデオパーラーが出現し、ネパールの人々は、インド映画以外の世界の映画の状況にひろく触れた。1980年代後半からは、VHSビデオによる映画(ビデオ・チャルチットラ)の製作が隆盛し、その本数はセルロイド・フィルムを凌駕した。





5 成長期(1991〜2000年) 民主化以降の映画製作急増の時代

90年民主化運動(ジャナ・アンドラン)後、ロイヤル・ネパール映画公社は民営化された。映画の製作本数と興業収入は急速に伸びた。

ネパール映画が主題とするものの対象や時代背景に拡がりがみられ、ヤダブ・カレルの“Prem Pinda”(1993)や、トゥルシ・ギミレ監督の“Chino”(1991)、“Balidan”(1995)、“Darpan Chhanya”(2000)など、ネパール映画を代表する作品やヒット作が生まれ、新しい監督たちも陸続と続いた。

また外国との人材や情報の往来が増えたことで、外国資本との共同製作が行なわれたり、国外の映画祭で注目される作品や監督も現れるなど、質的な変化の兆しもあらわれた。映画公開本数は2001年に年間50本とピークを迎えた。



6 転換期(2001〜2010年) 内戦による市場縮小から政情安定化にともなう回復の時代

2002年からの内戦激化にともない、映画産業は急速に縮小し、映画製作本数や映画館数が大きく減少し、一時はほとんど映画製作が停止した。

しかし2006年の民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)、マオイストとの包括和平合意締結による政情の安定化によって映画界も回復し、2010年の公開本数は過去最高の65本に達した。

新しいスタジオの建設、ディジタル・シネマの製作や配給網の確立、少数民族映画祭の開催や各種ワークショップの開催、大学の映画学科の開設、ドキュメンタリー映画製作の活性化や、新たな映画祭・映画賞の創設など、ネパール映画界の確かな脈動が感じられる。