初出:私立大学協会平成3年度図書館司書主務者研修会報告書, 私立大学協会,1991 [講演の記録をもとに再構成した論文]

視聴覚資料の資料構成に関する考察


伊藤敏朗



1.はじめに

 現代人のコミュニケーション活動が、もは や視聴覚メディアを抜きして語ることのでき ない状況の中で、図書館における視聴覚サー ビスにも大きな期待が寄せられている。
 本稿では、大学図書館における視聴覚資料 閲覧席の普及の現状と、そこに見られる課題 を通じて、幾つかのケーススタディーもご紹 介しながら、これからの視聴覚資料サービス の方向性、図書館員の取り組み方などについ て、何らかのヒントとなるものを提示したい と考える。

2.大学図書館における視聴覚資料サービス の現状

 筆者が世話人をつとめる視聴覚資料研究分 科会(注1)では、1989年に『AVブースカ タログ '89 〜大学図書館における視聴覚資 料閲覧席の事例研究〜』という小冊子を刊行 し、分科会会員大学を中心に、47例のAVブ ースを写真付きでご紹介した。
 当会では、これを全国の大学図書館に配付 し、またその際“AVブース”(視聴覚資料 閲覧席)というものの普及状況についてアン ケート調査を実施した。
 結果の詳細については、別誌に投稿中であ るので、ここではその概要を示すに止めるが (表1,2、図1〜4参照)、結論を要約す ると以下の通りとなる。

(1) 全国の大学図書館では、1980年代に入っ て視聴覚施設の導入が急速に進展し、1989 年までに50%を越える図書館でAVブース が設置された。これに、AVホール等を加 えた図書館のAV施設導入率は約70%に達 している。

(2) こうした“AV化率”では、国立−私立 −公立の順に、その設置規模(設置面積・ 数数席数等)は私立−国立−公立の順に高 いが、地域的な格差や、その図書館が竣工 した年代の違いによる格差は少ない(図書 館建築が旧いとAV導入率が低いというよ うな傾向は見られない)。

(3) 今回の調査で、AVブースは、全国の大 学図書館 247館に、 2,819台 3,797席(平 均11.4台15.4席) が設置されていることが 明らかとなり、年間利用者数は約 100万人 以上と推計される。
 (1989年10月1日現在,回答 459館)

 この年間利用者数約 100万人という数字は 、調査の結果得られたAVブースの全座席数 ( 3,797席)に、当分科会の会員館における AVブースの1席当たりの平均利用率(1ヵ 月当たり26.8人)を掛けて得られた推計値で あるが、大学図書館における視聴覚サービス の実施規模を物語る上では十分な値と言えよ う。
 そこで筆者は、これだけの広がりを持った 視聴覚サービスというものをより有為なもの として展開しようとするならば、各図書館の 視聴覚資料担当者が何らかのネットワークを もって結束することで、全体として非常に有 効なマーケットとして機能し得るのではない かと考えている。この集団が、今度は資料の 送り手の側、つまりソフトのメーカーや番組 の製作者達といった人々に良き批評を与え、 より眼の肥えた選択・収集をするという努力 を続けたならば、それが良い意味での刺激や 圧力となって、視聴覚資料の世界を質的にも 量的にも向上・充実させていくことができる のではないか−といった構想を強く抱くので ある。

3.視聴覚資料の資料構成と利用動向につい て

 さてながら、図書館にとっては「AVブー ス」という装置(ハード)よりも、そこでど のような資料が鑑賞・学習されているかとい うソフトの問題の方がより重要であることは 言うまでもない。
 各館における視聴覚資料所蔵数については 日本図書館協会や文部省の調査によって、あ る程度知ることができるが、その資料構成や 利用動向の実態は、必ずしも明らかではない 。
 視聴覚資料研究分科会では、会員校を対象 とした簡易な調査を試み(図5)、その結果 、映像資料の所蔵数の中ではノンフィクショ ンがおおよそ6割、劇映画は4割程度という ように、図書館側としては劇映画ではない資 料にそれなりに力を注いでいることがわかっ た。
 しかしこうした調査でも、その利用のされ かた−つまり学生達はどのような資料を好ん で見ているかという点は正確なデータを集め 難く、むしろ現場担当者の実感といったもの を集約することが現実的である。そして筆者 のもとには、図書館において実際に利用され る資料の相当な部分−おそらく9割近くは劇 映画である、という実情に担当者が頭を痛め ているという話がしばしば寄せられるのであ る。
 すると年間利用者 100万人というものも、 ある意味では、少々危険な意味あいを含んだ 数字と言わなければならない。つまり劇映画 の著作者達にとっては極めて刺激的な数字で もあるわけである。
 そこで利用の傾向を、劇映画からもっと固 い内容のものへとシフトさせていこうとする 様々な方法について考えることは大切だし、 そのノウハウも幾つか存り得る。
 例えば、劇映画専用ブースとノンフィクシ ョン(非劇映画)専用ブースの“棲み分け” を行う−そのために、劇映画はビデオディス クでのみ収集し、非劇映画はビデオテープで 収集する、といった方法がある。AVブース に備える機械も、ビデオディスク・プレーヤ を備えた席と、VTRを備えた席とを半々に しておく(両方を備えてスイッチで切り換え て使うような“便利な”ブースはあえて設け ない)と、「劇映画の利用者でいつもブース は満席」といった事態が避けられるばかりか 、(“劇映画用ブース”が満席の時には)映 画を見るつもりで訪れた利用者に“それ以外 の資料”を利用して貰う契機を与えることさ え期待できる。
 一番確実なのは、劇映画を置かなければ良 い訳で、実は、筆者の図書館では筆者なりの 考えもあって、現在のところAVコーナー( 15台15席)には劇映画を提供していない。
 しかし筆者は、必ずしも劇映画は娯楽で軽 いもの、という意識からこのような方針を立 てているわけではない。当館では、「映像資 料には、必ずそのテーマに関連した図書資料 と抱き合わせて収集」したいという方針があ って、映画関係図書の充実を先行しているか らであり、どのようにすれば劇映画ビデオに 図書館資料としての価値を高めることができ るかには、常に腐心しているつもりである。
 そこで本稿では、劇映画というものも、我 々の生活の中で貴重な情報源となることが少 なくないし、あるいは映画が作られた当時の 世間の人々のものの見かた・考えかたという ものを理解する上で、非常に重要なものを含 んでいるものである、と積極的に評価する立 場からの考察を試みたい。

4.映画資料の知的活用法を模索して〜ケーススタディー『映画の中の図書館』〜

 それでは、映画の資料的な価値をうまく活 用する為の、上手な“映画の読み方”とは、 あるいは“映画から学ぶ”とは、どういうこ とであろうか。
 そのケーススタディーとして筆者らが試み たのが『映画の中の図書館』というテーマで あった。
 映画を観ていて、そこに図書館のシーンが 出てきた時に、思わず身を乗り出さない図書 館員はいないだろう。
 読者は自分がご覧になった映画で図書館が 登場するというものを何本くらいご記憶だろ うか?即座に10本も思い出せれば、相当な映 画好きでおられよう。筆者自身(は決して映 画マニアではないが)、当初は僅か数本を思 い出せたに過ぎないが、1990年11月より本格 的調査を開始してから次第にその数を増し、 その後、和光大学図書館の市村省二氏の同テ ーマの研究に教えられ、概ね 130本以上にの ぼる対象映画が判明するに至って(注2)、 市村氏と筆者は共同でこれらの劇映画のビデ オ版を検討するなどして、その図書館シーン の分析・比較研究に当たることとなった。
 こうした映像を見比べるとさまざまな図書 館運営の様子とか、各国の図書館事情という ものがかいま見れて大変興味深い。
 例えば『ワン・モア・タイム』(エミール ・アルドリーノ監督,1989年)という映画の 冒頭には、エール大学の図書館シーンが登場 し、女子学生が6冊の本を3ヵ月延滞して90 ドル近い延滞金を請求されるシーンがあって 、年配の館員から「払わないと単位を保留す る」とまで言われてしまう。1冊1ヵ月延滞 して5ドルという料金は無茶に高い金額とも 思えないが彼女は現金では払えないという。 すると脇で見ていた学生補助員みたいな男子 学生が隙をみて端末を操作し、貸出し記録を 抹消してあげたことから、二人の間には好意 の情が…という短いシーンで、普通の人なら 大して問題にしないような場面でも、我々が 観ると、非常な刺激と情報を受け止めること ができるのである。
 我々が(知識としては)良く知っている図 書館、例えば『大統領の陰謀』(アラン・J ・パクラ監督,1976年)『容疑者』(ピータ ー・イエーツ監督,1987年)ほかに出てくる 米国議会図書館や『ティファニーで朝食を』 (ブレイク・エドワーズ監督,1961年)『ゴ ーストバスターズ』(アイバン・ライトマン 監督,1984年)『オフビート』(マイケル・ ディナー監督,1986年)などでお馴染みのニ ューヨーク公共図書館、『ジャッカルの日』 (フレッド・ジンネマン監督,1973年)の大 英博物館図書館のシーンなどにも思わず喰い 入ってしまうし、病院の中の図書館シーン、 (『アイリスへの手紙』『レナードの朝』) あるいは、病院への図書の配達サービス(『 月を追いかけて』)とか、刑務所の中の図書 館(『アルカトラズからの脱出』『ウィーズ 』)など、様々な図書館サービスのあり方も 、我々にとっては非常に多くの有益な情報を 含んでいる。
 しばしば感心するのは外国映画で、人々の 日常生活に図書館の利用がよく溶けこんでお り、高校生くらいの登場人物でもカード目録 やマイクロ資料などの利用のリテラシーが大 変高いことが示される場面のよくあることで ある(『ウォーゲーム』『フィールド・オブ ・ドリームス』ほか)。
 こうした映画を見ていると、よく言われる ことだが、「映画とは、世界に向けて開いた 窓である」という言葉が、実感されるわけで ある。
 更に興味深いのは、そこに、映画の作り手 や、その観客の本音というものを見てとるこ とが出来る、ということであろう。
 例えば映画の図書館のシーンで繰り返し現 れるのが、登場人物が会話の中で次第に激昂 していき終いに大声を上げ、それで周囲の利 用者や図書館員が一斉に振り向く、というギ ャグである(『メジャーリーグ』『ラオ博士 の7つの顔』ほか多数)。
 それは、実際によくある事というよりは、 一般の利用者が、「図書館は静粛であらねば ならない」というテーゼに、一種の抑圧感が あって、本音としては是非大声を出してみた い、出したら面白いだろうな、というような 衝動を潜在意識に抱えていることの裏返しと して読めるように思われる。あるいは書架が 倒れたり、本やカードが無茶苦茶に吹き飛ん だりするシーン(『It』『猫のように』ほ か)もしばしば現れるが、これも大衆の破壊 願望の発露といえなくはあるまい。
 しかしそれにも増して、映画の作り手(と 観客)の本音がくみ取れるのが、映画に登場 する図書館員というものの性格づけであろう 。
 映画に出てくる図書館員像というのは、大 抵ある種の挫折感を抱えており、まるで心の 傷を癒すかのように図書館づとめを志向して いたり、生き生きとした社会の動きからは1 歩退いて、本に囲まれた静かな生活を過ごし たいというような、気弱な、しかし腹の中で は何を考えているかわからない、かたくなな 人間像として描かれていることが多い。図書 館員を主人公として扱った映画に、大なり小 なりこうした傾向が強く見受けられるのは残 念なことである。その典型例としては、『さ よならコロンバス』(ラリー・ピアーズ監督 ,1969年)『ガス人間第1号』(本田猪四郎 監督,1960年)『ペンギンズ・メモリー 幸 福物語』(木村俊士監督,1985年)などの映 画をあげることができよう。
 また、夫を亡くした女性が生活に困ってい る所を周囲の人が同情して図書館に勤めさせ てあげているといった設定の映画も、やや気 にならないではない(『キャル』『男はつら いよ 寅次郎恋やつれ』ほか)。
 先頃亡くなってニュースになった、フラン ク・キャプラ監督には『素晴らしき哉! 人 生』という1946年の作品があって、映画史上 の“名作”として位置づけられている。この 物語は、人生に絶望した主人公が「自分一人 くらいこの世にいなくても、誰も何も変わら ない、困らない」と言いだし、そこへ天使が 現れて「それではお前がいない世界というの は、周囲の人達の人生もどれほど暗くて、寂 しいものになるか見せてあげよう」と、彼が もし子供の頃の事故で死んでいたらこうなっ ていた、という世界を見せてくれるという話 である。するとそれまでは、自分がいなくて もたいして変わらないと思っていた世界がま るで違っていて、周囲の者がみんな不幸な生 活をしている、そして現世では自分の奥さん になった筈の素敵な女性が、自分と出会わな かったばかりに寂しく図書館に勤めていたの だった−つまり“素晴らしき人生”というも のの対局にあるものとして図書館務めが設定 されているというわけなのである。
 その他、利用者への対応が非常に横柄であ ったり(『ソフィーの選択』)、「そろそろ 閉館なんですけど」(『誘惑者』)、「もう 閉館したのに」(『疑惑の影』)などと嫌な ことを言ったり、再会した恋人から「驚いた 、君が図書館の司書だったなんて」と言われ て「がっかりした?」と聞き返してみたり( 『さようなら こんにちわ』)等々、我々に してみれば素直に首肯しがたい図書館員像が 陸続と描き続けられている。
 映画とは確かに虚構の世界である。が、そ れゆえに、観客が潜在的に持っているイメー ジというものを率直に反映し、人々にとって やすやすと受入れられ易い描写のされ方をす ものだとも言える。
 それは描かれている立場の我々図書館員に とって、自分達は世間ではこんなふうな職業 、人間として見られているのだということを 知ることができる「鏡」としての働きを持っ ている、ということであろう。
 つまり映画というのは、使い方によっては 「外の世界を覗く窓」であり、ある時は「自 分自身を写す鏡」となり得る−そんなことを 、筆者らは、このケーススタディーを通じて 学んだ次第である。
 無論、こうした世間の図書館員に対する偏 見を放置していて良いとは思われない。
 それは一般の人に対してということもさる ことながら、一つには、これから図書館員に なる人、現在図書館員である者の気持ちの在 り方にも影響があると思うからである。
 いま、図書館がとり組むべき山積した課題 の解決には、強靱なバイタリティーと才能の ひらめきを持った人物の登場が渇望されると 思うのだが、これが世間にはびこった図書館 員のイメージというものに攪乱されて、例え ば大学の事務局長あたりが、「彼は気が弱そ うだから図書館向きだろう」という人事をし たり、若い人が「自分は人づきあいが苦手だ から本の世界に没頭したい」などという手合 いしか集まってこないような職業になってし まうと、わが業界の未来は暗いと言わざるを 得まい。
 ここは日図協あたりが一念発起して、図書 館員が主人公となって、颯爽と難事件を解決 して悪党をなぎ倒し、最後は大金持ちになっ て美男美女に囲まれる、という映画を作れば 良かろうと思うが、実際には日常業務の中で 地道な努力を重ね信頼を高めていく、という ことしかなさそうである。ただ、これまでの 図書館のPRというのは当然利用者に向けら れていた訳だが、これからのPRはもう少し 、図書館内部の人間の意識改革とか、有能な 人材の確保といったことも戦略に入れるべき ではないかと考える。
 余談はともかく、筆者自身は必ずしもこれ らの映画の描写の(多少、現実離れしていた としても)、その全てを偏見と誤りと決めつ けて目をつぶってしまうのではなしに、やや もすれば確かに静的・内向的になりがちな図 書館サービスというものを、今よりももっと 動的で開かれたものへと展開する術はないの かと自らに問いなおす良き契機として捉えた いと思うのである。

5.映画資料データベースの利用

 このように自分の職業が、映像メディアで どのように描写されているか、という話は身 内の中では面白いのであるが、より一般的な テーマについても、「劇映画」という、この 世界的なメディアの中で流通しているイメー ジ、それによって形成される人々の社会的な 意識というものについては様々な形で問題と して取り上げることが可能であろう。
 例えば、「映画の中の女性の描かれ方」( 注3)とか、あるいは「外国映画における日 本と日本人」(注4)などの問題はしばしば 取り上げられて人々の関心をひく。
 そうしたニーズからすると、図書館におけ る劇映画資料の位置づけというのは、必ずし も軽い娯楽を提供している−ということには 止まらないものがあるのではないか。
 むしろ、せっかく図書館に置くのであれば 是非、図書館の知恵というものを使い、様々 な関連図書との有機的な結びつけを図ったり 、興行的には殆どヒットしなかった映画でも 資料的価値の高いものや、第3世界の作品な どを細めに収集し、その目録を公開し資料の 所在を明らかにするといったことが、これか らは大きな意味のある仕事になるように思わ れる。
筆者は最近「映画の中の葬式」というテー マでも研究してみたいと思っている。という のも、此の頃、大都市では墓地用の土地が足 りないことの対策として、ロッカー式の墓と か芝生公園のような墓などが登場するように なってきたが、こうした傾向には外国映画の 影響が少なくないのではないかという観測を 持っており、このような人間の死生観にさえ 関わる部分も映像メディアによって次第に変 化させられ得るとことの一つの例証ではない かと関心を寄せるからである。
 それでは、このような映画資料の活用を図 る為のツール−具体的には「図書館」とか「 葬式」とかいったキーワードで、そのシーン が出てくる映画を検索するようなデータベー スとしてはどのようなものがあるか。
 最も良く知られているのは、DIALOG#299 にあってわが国でも利用可能な“Magill's survey of cinema”である。
 このデータベースは、アメリカの映画芸術 科学アカデミー等の専門機関が結集して作成 し冊子体も出版されている映画事典のような ものであるが、タイトルや監督・製作・出演 者のほか、映画の内容の抄録と解説、その映 画についての評論記事の所在、さらにその映 画において重要と思われる件名を含んでいる 。そしてこれらのどの項目からでも、いかな る単語からでも、めざす映画の情報を検索す ることができるようになっている。
 これを例えば“Library”とか“Librarian ”というキーワードで検索することで、70本 とか80本といった数の映画が、有名・無名を 問わず出力される(注5)。映画研究家にと っては重要な情報源であり、筆者らの調査が このデータベースに大いに助けられたことは 言うまでもない。
 もう一つ、やはり市村氏から教えられ活用 した情報源は、学術情報センターのNACSIS-M AIL から得られたリストであった。
 これは同システムの電子掲示板“カタロガ ーの部屋(CAT) ”に、お茶の水女子大学図書 館の鈴木隆雄氏がBITNETの“BIフォーラム” からの転載として紹介した記事『映画の中の 図書館(員)』で、北米大陸とイギリスの図 書館員達、約50人が協力してその情報を集め たという内容である。この作業は1990年の暮 れごろから開始され、半年間で 100本程の映 画・テレビ番組等を収集している。
 筆者や市村氏もほぼ同時期よりこのテーマ に取り組んでおり、図らずも洋の東西で似た ようなことをやっていたわけで、図書館員と して海を越えた連帯感のようなものを感じた ものである。そしてこのような書誌調査とい うものが、既に電子ネットワークの活用と不 可分の時代になっていることを痛感したので あった(注6)。
 翻って日本映画について、このようなデー タベースがあるかを見てみると、筆者の知る 限りでは、映画資料専門のライブラリーでも 、この“Magill's survey of cinema ”に匹 敵する試みは、まだなされていないようであ る。あえていえば、SONY社製8センチCD-ROMプレ ーヤ“Data Discman”用ソフトにある『ぴあ シネマクラブ 電子ブック版』(ぴあ刊,19 90年)が、一般に利用可能な劇映画資料の機 械可読目録と言えようが、内容はごく簡略な もので“Magill's…”とは比べるべくもない 。
 従って「映画の出てくる図書館」を調べる のも、実際は、洋画より日本映画のほうがは るかに困難であった。
 ある程度は先行的な研究(注7)に教えら れ、あるいは人づてに聞くなどして判ったも のの、最後の詰めとなるとビデオレンタルの 店で片端からパッケージを手にとっては、こ れならば図書館が出てくるのではないか、と 当たりをつけて持ち帰り、VTRの早送り機 能で飛ばし見をした。このような原始的方法 で図書館シーンに巡りあう効率は悪く、映画 の鑑賞法としても邪道であろう。
 熱心な映画ファンからは、そもそもビデオ になった映画などは映画ではない、とさえ言 われてしまうかも知れぬ。が、現在のように 、VTRによる映像コミュニケーションの手 段が一種の社会的基盤と言えるまでに普及し てくると、これまで半ばは埋もれていた古い 日本映画なども、我々の目に触れる機会が( 映画館で見るしかなかった時代に比べて)か えって増えてきつつあり、その文化財として の資料価値も俄に見直される機運が出てきた ように思われ、図書館としても体系的な資料 整備によって、その需要に応えていくことが 真剣に検討されて良いと思われるのである。
 その為には、この場合一次的資料に相当す るところのビデオ資料それ自体の収集に力を 注ぐ一方、これを支える、この場合二次的資 料とも言える映画関係の図書・文献の整備が 、まず心がけられるべきでことであろう。図 書館としては平凡で当然な仕事ではあるが、 視聴覚資料サービスを実施している館で、こ のことが意外に片手落ちのところが少なくな いように思われる。
 わが国は、長年こうした映画分野の図書に 関する書誌の決定版というものを欠いていた が、辻恭平氏は『事典 映画の図書』(凱風 社刊,1989年)を刊行して、一気にこれを補 った。前後して「映像文献学」といった領域 も次第に形を成しつつあり(注8)、我々の 仕事に方途が示されるようになってきている 。

6.映像資料と図書資料の有機的結びつけに ついて

 映像資料の整備充実、あるいは映像データ ベースの構築といったものは、必ずしも直ち に何か新しい学問的貢献に結びつくものでは ないかもしれない。が、映像資料は、人々の 意識やものの考えかたの本質的なもの、曰く 云い難くも根源的な、あるいは深層的な部分 を理解する上で大きな役割を果たし得る。文 字(言語)が、求める知識を点的に与えてく れるとすれば、映像はそれを面として与え、 理解に幅と奥行きを増す。我々の知覚とは、 そうした具象(映像)と抽象(文字・言語) の間を揺れ動く中で次第に形を顕し、次の行 動が決定されていくものなのである。
 もとより映像資料というのは、感性に訴え る力が強いが、それが理性的な知識として定 着する為には、文字・言語情報による裏づけ が絶対不可欠である。とはいえ現代において は、文字情報だけでは伝えきれないものもあ まりにも多い−つまり車の両輪である。と位 置づけた上で、我々図書館員の役割というの は、映像資料のもつ「膨大な情報量と、強い 動機づけの力」というものを、図書館に蓄積 された図書情報と、いかに有機的に結びつけ てやることができるか、ということに収斂す るのではないだろうか。
 あるテーマについて本を読み進むうちに、 どうしてもその具体的な姿を見たい、音を聞 きたいという要求が生まれて、それに応える 映像が提供される。そして、そこに映し出さ れたものを手掛かりに、新しい発見や知識が 拡大し、これを再び文字情報で裏打ちする− といったように、メディアの壁を取り払って 、知的好奇心が湧く湧くと膨らんでいけるよ うな“マルチメディアな知性の旅”“心の冒 険の場”を提供することが、これからに期待 される図書館像とは言えまいか。それは長年 培った図書館の知恵によって構築可能であり 、その実現によって、これからの図書館利用 に対する感銘を深め、ひいてはわが国の「公 教育システム」というものへの信頼を高める ことにも寄与し得る恰好のサービス領域だと いうことができるように思う。
 近年、「マルチ・メディア」「ハイパーメ ディア」といわれるような、文字・図形・映 像・音声等の、異なった種類の情報を統合し て扱うことのできる対話型のコンピュータが 注目されており、筆者も大きな期待を寄せて いる。
 しかし、そのようなハードウェアが完成す るまでは、何も出来ないなどということはあ るまい。人間の方が“マルチメディアに行動 ”すれば良いのであり、そうした活動を強力 に支援できるよう、図書館資料が十全に組織 化されていることが大事なのである。

7.映画資料のキャプション(字幕)の利用 と課題

 ここで映像情報と文字情報の統合を考える 上で示唆を与えられるものとして、クローズ ド・キャプション・システムについて見てみ たい。
 「クローズド・キャプション」とは、テレ ビ放送や市販ビデオテープ等において、通常 は字幕は見えないが、ある機械を通すと、映 像信号の中に予め潜ましてあったコードによ って、画面上に(英語の番組に英語の)字幕 が浮かび上がってくるという技術である。ア メリカで販売される映画ビデオの多くにこの ような信号が潜んでおり、聴覚に障害のある 人でも映画を楽しむことができるというもの だが、わが国の大学図書館でも、語学教材の 一種として次第に普及しつつある。
 面白いのは、この機械とパソコンをつない で、字幕の文字をMS−DOSのテキストフ ァイルにダウンロードすることもできること である。これを用いれば、その情報がそのま ま、映画の中の台詞の“全文データベース” になり得るということが理解されるだろう。 (これをそのまま翻訳ソフトにかけて自動和 訳を行うことも可能であろう。)
 もし日本映画のビデオ版に、このような仕 組みのものが出れば、これをパソコンにつな いで映画の全文データベースを構築すること もある程度機械的にやれるのではないか、と いう示唆を与えられる点で興味深い。
 勿論こうした仕掛けをデータベース構築に 使う、という発想はそもそも本末転倒であっ て、まずここで我が国の聴覚障害者への視聴 覚サービスというものを考えてみなければな らない。
 アメリカでは、この字幕復調機(デコーダ ー)をテレビ本体に内蔵することが法律によ って義務化され、1993年7月以降、このよう な装置を内蔵していない13インチ以上のテレ ビは販売ができないこととなった。もともと アメリカでは、このような聴覚障害者向けの 字幕放送が広く実施されており、録画による 番組は勿論、生番組でも特殊なタイプを用い てできるだけリアルタイムに字幕を出しなが ら放送しようとすることが多く行われてきた が、それを見る為の復調器が別売りだと、購 入時にその人が難聴者とわかってプライバシ ーの侵害になるなどの声もあり、ついにテレ ビ内蔵とすることが法制化された。
 これに対する日本のテレビメーカーの対応 は速く、単体なら3万円程したこの機械を3 千円程度のLSIにすることに成功したので あるが(注9)、それを伝える新聞記事の次 のようなしめくくり方に、筆者は強い印象を 持った(注10)。
 「…日本でも、字幕を画面表示できる放送 は技術的には十分可能だが、そういう発想が ない(家電関係者)ため、今のところ実現し ていない。…」
 わが国のテレビ放送における文字放送には ほぼこの機能があるので、全く無いわけでは ない(但し、ビデオソフトには皆無と思われ る)が、その普及は遅々としている(注11) 。それにしても技術的には何でもない事が、 その発想がないので実現しない−とは如何な ることであろうか。
 今後、家庭用VTRがディジタル化されて くると、このような映像情報とテキスト情報 との多重化は、技術的にはより容易なものと なろう。(例えば、ディジタル録音であるコ ンパクト・ディスクのサブコードには、レコ ード会社名と曲番号のコードが記録されてい るのである。)
 日本の電子技術は、まさに世界に冠たるも のがあるが、それを何にどう使ったら良いの かという部分では、まだまだ意識が低いよう な気がしてならず、「技術大国日本」という ものの内実に、いささか寂しいものを感じる のは筆者だけではあるまい。
 そこでせめて図書館においては、少なくと も公共図書館であれば、こうした字幕付きビ デオ資料の作成や貸出しが可能となるような ルールができないかということで運動してい る方の話しも聞いたが、現在の所こうした字 幕付きビデオ資料の制作は、(文部省管轄の )図書館ではなくて厚生省管轄の「聴力障害 者情報文化センター」という所に著作権処理 の窓口が限られており、図書館の出る幕は殆 ど無い、という状況であるらしい(注12)。 しかし聴覚障害者の人々の希望する番組の字 幕化にはなかなか追いつかないという実情も あり、図書館やボランティアの人々のパワー をもっと有効に活かせるような方法がないか 、様々な試みがなされている所である。
 最近では簡単な合成機械によって、素人で もビデオに字幕やタイトルを入れることはた やすい。また所謂“AV対応パソコン”や“ ハイパー・メディアパソコン”であれば、台 詞のテキストが入ったフロッピー・ディスク と同期しながらビデオテープを再生すること で、クローズド・キャプションと同様の効果 を上げるということも考えられる。
 従ってその実現はどちらかというと、もは や技術的問題ではなく、畢竟、著作権論議に 尽きるのである。
 筆者としては、著作権法における点字図書 の位置づけのような形で、図書館の視聴覚サ ービスというものに、著作権法をクリアする ような特権的な地位が与えられるようなこと を検討していくべきではないか、と考える。
 それは詰まる所、何の為の図書館か、何の 為の視聴覚サービスか、そしてテクノロジー とは何に奉仕すべきなのか、ということを考 えていく上で、どうしても一度はとりあげら れなければならないテーマであろう、と認識 するからである。
 ともあれ筆者がここで言及したかったこと は、クローズド・キャプションに見られるよ うな、映像情報とテキスト情報を重畳したメ ディアの可能性は将来ますます増大するので あり、それによって映像情報の検索、要素の 抽出と加工、そして再構成までの処理がより 容易なものとなり得るということ。しかしそ の実現においては、技術的な面よりも著作権 問題をはじめとする運用ソフトウェアといっ たものが、幅広い関係者の共同理解のもとに 形成されていくことが大切だということであ る。

8.著作権問題と図書館側の姿勢・眼差し

 周知のように、著作権法の改正にともなっ て、図書館はビデオ資料に一定の補償金を支 払うことによってその館外貸出しが可能とな り、補償額をめぐる著作権者団体と日本図書 館協会との交渉も大詰めをむかえている(注 13)。しかしこれによって解決を図ろうとす る資料の「貸与権」と、その「上映権」とは 別の権利関係にあり、図書館でのビデオ資料 の上映についてはなお若干の問題を残すよう に思われる。
 筆者の見解ではAVブースの利用は“上映 ”に相当し、館外に出さないならば何も問題 がないとは認識しておらず、その取扱いにつ いては今暫く微妙なものがあると考えるが如 何だろうか(注14)。
 本来、図書館の公教育機関としての位置づ けに十分な理解があれば、より多くの人々の 新たなニーズを開拓し、映像産業の次の世代 の担い手を育成する上でも貴重な機会となり 得る図書館の視聴覚サービスというものと、 ソフトの著作権者との利害は必ずしも敵対す るものではなかろう。
 筆者は、図書館における視聴覚資料の著作 権論議は決して煮詰まったものではなく、今 後の行方は、我々が図書館内で実施するサー ビスの内実や、図書館員の“姿勢”“眼差し ”といったものによって、大きく左右され得 ると考える。“姿勢”“眼差し”というと抽 象的に聞こえるかもしれないが、筆者が言い たいのは、図書館(員)側が、映像表現とい うものを成立させている様々な創造的価値( 脚本・演出・撮影・編集など)に敬意を払い 、その作品をただの絵と音のパーケージとし てではなく、作り手の血の通った生きた資料 としてとらえることの大切さであり、その財 産権を尊重しつつ、より高い付加価値ととも に利用者に提供していこうとする“姿勢”で ある。また、メディアの送り手(制作者・出 版者)と受け手(利用者)との間にあって互 いのフィードバックを媒介しながら、時間を かけてこの市場をより良く育てていこうとす る“眼差し”である。
 実際のところ、映像資料の制作者には、あ まり商売にはならなくても、内容の優れた作 品を地道に作り続けている人々が数多くいる が、それを正当に評価する場はこれまで少な かったように思われる。図書館員がより積極 的に、そうした良き作り手達を見いだし、時 に声援を送り時に厳しく注文をつけていくこ とは、職人気質の旺盛な彼らにとって大きな 励ましとなろう。そして前述したように、我 々はそういう形で業界の育成に寄与できるだ けのマーケットとなりつつあり、その責任も あると考える。マイナーではあるが良質な企 画が、図書館マーケットを見込んで実現でき るような環境が生まれることが期待されてな らない。
 これまでの図書館は“本の世界”との長い 歴史的盟友関係を築いてきた。そして例えば 図書の目録の問題にしても、そこには本の編 集や出版・流通の仕組み、書誌的事項の管理 等についての出版者側と図書館側双方の良き 理解があり、あるいは人と情報の面で互いに 浸透圧が働くことによって出来上がってきた 仕掛けのあることが大きな役割を果たしてい る。
 これに比べれば映像資料の出版・流通事情 は非常に未成熟で、そのことが目録の採録ひ とつにしても、しばしば困難を感じさせる原 因になっていると思われるのである。日本目 録規則1987年版に示されている「近代的な出 版・流通制度が確立していない場合、出版関 係の機能と物としての製作の機能が混在して いることがある…」(1.4.2.1)とは、まさに このことであろう。映像資料の組織法の難し さを考えるうちに、筆者は資料の組織法とい うものも、決して純粋にテクニカルなものと して独立している訳ではないということ。そ して映像資料の制作者と出版・流通業界、図 書館界の、人間的な交流や情報の浸透圧が働 くような関係づくりによって、これらの課題 の多くは同時進行的に解決されていくもので はないか、ということに気がつき始めたとこ ろである。それは、一重に図書館員の“姿勢 ”と“眼差し”にかかっていることと思われ るのである。

9.視聴覚資料サービスの課題

 以上に見てきたように、大学図書館におい ては、その設備面での充実にはある程度見る べきものがあるが、利用の実態や図書資料と の有機的結びつけという面で、これから解決 すべき問題は多い。
 筆者は機会あるごとに、視聴覚資料と図書 資料との目録の混配を提唱するわけであるが 、これが(理屈はともかく)、現実の図書館 サービスの中で様々な困難を伴うものである ことも十分に承知している。
 前述した組織法上の困難さを別としても、 例えば管財上の扱いの問題である。多くの図 書館では当該資料が備品となるか消耗品扱い なのかによって台帳や装備の扱いが違ってく る。図書のMARC作成と備品台帳の出力が 一連のものとして行われるようなシステムで は、消耗品としての視聴覚資料がこの作業の 流れとは別扱いになり、財産的な位置づけが 低いことが目録を簡易なものとし、混配を不 可能としているケースは少なくない。また視 聴覚資料が、教材・教具として動的に利用さ れ、図書館の管理の下から逸脱しがちな“特 殊資料”として認識される傾向もある。これ らの事情によって、甚だしくは「視聴覚資料 は図書館として購入しない」という、いささ か後ろ向きな方針をとり続けているところが あるのは残念なことである。
 こうした管理上の多少の不都合や、問題の 積み残しがあったとしても、筆者は、各館に おいて出来得る範囲で良いから、とにかくよ り多くの視聴覚資料を収集・提供していくこ とが今は大事であると思う。それは利用者の ニーズに応えた多様な学習環境の提供、良質 な資料が再生産可能なマーケットの育成、そ して図書館員を真の“メディア・プロフェッ ショナル”へとステップアップさせていくた めの契機としてぜひとも必要なことと考える からである。

10. メディア・センターの構築と担当職員の 職能の確立に向けて

 よく知られているように、アメリカの学校 図書館基準では、既に1969年版から、図書館 とか視聴覚センターという言葉をやめ、それ らが統合された「メディア・センター」とい う考えかたを採用するとともに、それを運営 する人々を、従来のライブラリアンとかAV 主任という言葉を廃し、「メディア・プロフ ェッショナル」と呼んで、新しい専門的資質 と技能を要請している(注15)。
 近年、わが国の大学図書館においても、視 聴覚サービスを図書と並ぶ重要な機能として 位置づけ、市販資料の収集にとどまらず、自 主教材の制作をも手がけるなど、メディア・ センターとしての機能を発揮しつつある例が 現れてきたことも、こうした“メディア・プ ログラム”の考え方に沿った必然的な方向と して理解することができよう。
 これからの時代に求められるのは、多様な メディアを駆使して、豊富な情報収集と発信 とが自在に出来る能力を備え、知性と感性と の融和した人間像であると言われる。そのた めには、図書(自然言語)、視聴覚(映像言 語)、コンピュータ(機械言語)を統合して 活用でき、その情報の処理にあたることので きるような学習環境−即ち、メディア・セン ターの構築が求められるのであり、それを支 える確かな技術と哲学を備えた担当者−メデ ィア・プロフェッショナルの育成こそが、当 面する最大の課題であると思われる。

11. おわりに

 以上に述べてきた筆者なりの、「視聴覚サ ービスの方法論」の要点は、次のようにまと められる。

(1) 視聴覚資料のもつ内容の多面性や、その 文化的・創造的な価値を正しく理解し評価 する力をつける。そして、より良い資料を 選択・収集し提供するという、図書館とし て当然の仕事の積み重ねによって、視聴覚 資料のマーケットをより良く機能させ発展 させることができる。

(2) 常に図書と視聴覚資料の有機的組織化を 心がけ、図書館ならばこその視聴覚サービ スを構築することによって、図書館利用の 感銘を高めることができる。視聴覚資料の 制作者や出版者とも幅広くふれあい、人と 情報の交流を深めることで、彼らの“思い ”や“体質”をも理解する。これらのこと を通じて、著作者と図書館とは協力して、 視聴覚資料のより多様で幅広い利用形態を 認め促進していくことができる。

(3) このように図書館員が視聴覚資料の組織 法の諸問題の解決や、資料の自主制作など にも積極的にとり組むことによって、メデ ィア・プロフェッショナルとしての能力が 高まり、利用者は、図書・視聴覚資料・コ ンピュータ等のメディアが統合された、優 れた学習環境(メディア・リソーセス)を 享受できることとなる。

 図書館における視聴覚資料サービスという ものは、どのような形にせよ、従来の図書館 の殻を破った新しい学習環境を構築し得る可 能性に富んでいるが、その実現は詰まる所、 強い目的意識と意欲を持った館員一人一人の 働きに掛かっているのであり、巷間はびこる “従来の図書館員像”からは一歩も二歩も踏 みだした積極性が求められるのである。
 本稿の前半を割いて『映画の中の図書館( 員)』というケーススタディーをご紹介した ことも、そのメンタリティーに、いささかの 刺激を提供したかったからに他ならない。
 筆者のこれらの考察が僅かなりとも、大学 図書館における視聴覚資料サービスへの関心 を高めることに資するところがあれば望外の 喜びである。




本稿は1991年8月29日私立大学協会平 成3年度図書館司書主務者研修会における 伊藤敏朗講演「視聴覚資料の資料構成に関する考察」, ならびに1991年度鶴見大学図書館学講習会誌 『一夏会報』への寄稿「メディア・プロフェ ッショナルの育成:図書館における視聴覚資 料サービス担当者の姿勢と眼差し」をもとに 加筆してまとめたものである



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