ネパール映画『散るひと〜シリスの花〜』監督ノート 伊藤敏朗

映画『散るひと〜シリスの花〜』は、私(伊藤敏朗)が、ネパールの映画プロデューサーからのオファーによって脚色と監督を担当した長編劇場映画(2時間15分)です。

この映画の原作『Shirish ko Phool』(シリスコフル :"シリス"の花の意、英題"Blue Mimosa")は、ネパールの文豪 パリジャート女史 (Parijat: 1937-1993) が執筆し、同国文学の最高峰であるマダン賞を受賞(1965)した、国民的ともいうべき有名な小説ですが、その内容はネパール人にとってもきわめて抽象的かつ難解なものとされており、長らくその映画化が実現したことはありませんでした。

私がネパールにおいて製作した第1作『カタプタリ〜風の村の伝説〜』にカメオ出演してくれた映画プロデューサーのジャガット・ラスティア氏は、『カタプタリ』の撮影期間中、平行して別のネパール人の脚本家と監督の手ですでに本作の撮影を開始していたのですが、完成した『カタプタリ』を見ると、それまでに撮っていた素材を全て捨て、私の監督作品としてプロジェクトをゼロから再スタートすることにしたのでした。

『Shirish ko Phool』は、これまで邦訳がなく、ネパール人翻訳者による日本語訳の手稿と、Sondra Zeidenstein氏が手掛けた英語訳(1972)を参照しながら本作を読み込み、理解に努めました。またパリジャートの世界観の理解のために、パリジャートの執筆小説としては唯一翻訳されている『二十世紀・・ある小路にて』(ネパール女性作家選,三枝礼子・寺田鎮子訳,段々社/星雲社,1988)も参考にさせて頂きました。

私のシナリオ・リライティングによって、ジャガット氏が最初に採用したシナリオは大きく変更されましたが、むしろそれによって登場人物の造形などは、原作に忠実なものになったと考えています。いっぽうで、映画観客の理解を助ける目的から、いくつか原作にはない場面を追加するなどして、国際的な映画市場においても流通可能な普遍性をもたせ、パリジャートのメッセージがより鮮明に浮かび上がるように努めました。

パリジャートの作品世界には、怖ろしいほどの虚無感が横たわっており、また人間社会を見通す冷徹で鋭い批判的視点に貫かれています。それでいて読後感は、けして虚無的なものとならず、むしろ人間へのあふれ出るような愛と生命賛歌に心が満たされるような感動を覚えます。それこそが、芸術のもつ本質的な役割であり、それを伝える方法が小説であっても映画であっても変わることのないものでしょう。ただ映画にはより大衆的で世界的なものであることも求められます。外国人として、請われて脚色・監督をつとめた私には、本作において、ネパール文学としての高い芸術性や独自性を喪わないいっぽうで、映画としての世界的普遍性、エンタテインメントとしての娯楽性や興業性を同時に満たすことが求められたのでした。

私は2009年1月に、自分のゼミ生1名をともなって、カトマンズに入りました。同年2月16日クランクイン。途中、私の日本への帰国時期の中断を挟んで同年8月にクランクアップしました。リサーチも、シナリオ・リライティングも、クランクイン後の撮影・演出も、すべて経験したことのない苦難の連続であり、この間にプロデューサーはジャガット・ラスティア氏から、本作の主演者でもあるガネス・マン・ラマ氏に交代しましたが、編集・録音作業は地道に継続されました。足かけ4年の歳月の末、やっとの思いで完成し、現地での試写会を終えた本作を振り返ってみて、その仕上がりに、私自身はたいへんに満足しています。

本作のこのような成果は、第1に、パリジャート女史の原作がたぐい稀な本物の傑作であり、あらためてそのテーマの深淵さと普遍性に心打たれること。第2にわが出演者たち、とりわけ主役であるガネス・マン・ラマ氏(スヨグ役)と、サルミナ・グルン嬢(バリ役)の頑張り、加えてネパールの映画俳優としてその名を知らぬ人のない、ゴパール・ブタニ氏やバスンドラ・ブシャール氏らの豪華俳優陣の尽力によって、小説の観念的世界がみごとに肉づけされ、具体的に表現され、生命感あふれるものとなったこと。そして第3に撮影監督のガウリ・シャンカー・ドゥンズーン氏や音楽を手掛けたディネス・スラム氏をはじめとするネパール映画の第一級スタッフらの懸命な仕事ぶりによる美しい映像・音響表現に負うところが大であると思われます。そのうえで本作をきわめて魅力的なものにしているのは、世界遺産であるカトマンズバレーの中世都市風景であり、原作をも超えた映画的魅力と感動に満ちたものになったと申し上げることができるでしょう。

本作は2013年、カトマンズでの公開にむけて準備中です。本作の公開をつうじて、日本とネパールの文化的交流がいっそう促進され、両国の友好発展に少しでも役立つことができればと願っております。



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