初出:視聴覚教育 Vol.47,No.6(1993.6) pp.24-27

映像メディアにおける図書館・図書館員像



伊藤敏朗



 一昨年の『アサヒグラフ』に「ハリウッド映画 の中のアジア人・日本人−そのイメージ」という 特集がある1)。ストイックで残忍な兵士、従順な ゲイシャガール、猛烈サラリーマン−と続く典型 的日本人像。その滑稽さに噴き出したり、時に一 方的なイメージの押しつけに辟易させられたりも するが、掲載されたスチルを眺めるうちに、戦前 から今日まで一般的なアメリカ人が抱いてきた、 あるいは抱きがちな日本人観・アジア人観につい ての‘心の深層’のようなものが自然と浮かび上 がってくる気がするところが大変面白い。
 メディアにおける女性像という問題もしばしば 関心を集める。「私作る人僕食べる人」というC Mがヤリ玉にあがったのはだいぶ前の話しだが、 今も家事や育児を主婦の役目と決めつけたり、性 を商品化した広告が多いという声は後を絶たない。 日本映画に出てくる女性が、美少女やマドンナな ど男性側に都合の良いイメージに偏っていること を指摘した女性グループもあるが、映画に生き生 きとした身近な女性像が描かれにくいのは現実の 日本社会の反映だとして、これを乗り越える努力 を訴えていることは傾聴すべきだろう2)。
 メディアにおける表現は、作り手や、その背景 にある社会・世相の意識や考え方を写す鏡であり、 それがまた受け手の観念を触発し、あるいは増幅 して行動を方向づけていく。そこにこめられた多 様なメッセージを分析し、つねに洞察を加えてい くことは、国と国や人と人とのコミュニケーショ ンを考える上で重要な意義があることと思われる。
 前置きが長くなったが、ここで考察したいのは 「映像表現における図書館・図書館員像」である。 筆者ら図書館員にとって、このテーマは大変興味 を惹かれることの一つであり、これまでの幾つか の研究から洋邦画あわせて約130本以上の「図 書館映画」が発掘され、図書館員達の世界で反響 を呼んでいる3)。それらの関心の焦点としては、

1.様々な図書館事情を知るユニークな情報源と なること。
2.一般的な図書館(員)のイメージがどのよう なものか、自らを写す“鏡”となること。
3.図書館の登場する映像資料の探索方法やその 情報ツールについて研究することに、図書館情 報学的なテーマのあること。

 などのことがあげられる。最近は図書館での視 聴覚資料の充実が目覚ましく、そのデータベース の構築や映画資料の知的活用法を考える上での恰 好のケーススタディーになっているとも言えよう。

1.映画は世界に開いた窓

 筆者は大学図書館に働く身なので、映画の中に 大学図書館や学校図書館(室)のシーンが出てく ると思わず身を乗り出してしまう。
 外国映画で見てみると、『暴力教室』『卒業』 『ペーパーチェイス』『追憶』『ブレックファス ト・クラブ』『ミスター・ソウルマン』『三人姉 妹』『セント・オブ・ウーマン』等々…。青春映 画にちょっとした知的雰囲気の舞台を提供したり、 ズラリと並ぶ書架の列を教育体制の象徴として描 いていたりなど数多くの映画に登場する。
 『ある愛の詩』(70年)では、ラドクリフ女 子大学図書館でアルバイトをしているヒロインの もとに、ハーバード大学の男子学生が本を借りに 来る場面から始まるが、このことでアメリカでは 大学間の図書館相互利用が日常的に行われている 様子がうかがえる。『ワン・モア・タイム』(8 9年)も、エール大学の図書館で女子学生が6冊 の本を3カ月延滞して90ドル近い延滞金を請求 される場面から始まる。年配の館員から「払わな いと単位を保留する」とまで言われた彼女は現金 の持ち合わせがなく立ち往生してしまう。すると 脇で見ていた学生補助員とおぼしき男子学生が隙 をみて端末を操作し、貸出記録を抹消してあげた ことから2人の間には好意の情が…という短いシ ーンである。延滞金が1冊1か月で5ドルだとか、 それを払わない間は単位を保留すると言う権限が 図書館にあることなど、図書館員としては多くの 刺激と情報を受け止めることができる。
 映画によって、海外の有名な図書館の様子をか いま見ることもできる。『大統領の陰謀』『容疑 者』などにおける米国議会図書館、『ティファニ ーで朝食を』『ゴーストバスターズ』『オフビー ト』などでお馴染みのニューヨーク公共図書館、 『ジャッカルの日』の大英博物館図書室、『ベル リン天使の詩』のベルリン市立図書館などの場面、 そして『薔薇の名前』における中世の教会図書館 の情景なども、画面に釘づけにさせられる。
 しばしば感心するのは、アメリカ映画で、一般 市民や高校生などの登場人物が、カード目録やマ イクロ資料などを大変上手に使っている場面が少 なくないことで、人々の日常生活に図書館の利用 がよく溶け込んでいることが伺える(『フィール ド・オブ・ドリームス』『ウォーゲーム』など)。 少し前の時代には図書館が町の集会場のように使 われていたことを示す映画もある(『ラオ博士の 7つの顔』)し、病院の中の図書館(『レナード の朝』)や図書館から病院へ出張しての貸出サー ビス(『月を追いかけて』)、刑務所の中の図書 館(『ウィーズ』『アルカトラズからの脱出』) など実に多様な図書館サービスが描かれている。 『グッドモーニング・ベトナム』(88年) では 冒頭のラジオDJで、米軍が戦地にも図書館サー ビスを展開していることが語られ、その裾野の広 さに舌を巻く。一方、『アイリスへの手紙』(9 0年) では、非識字者が文字を覚えるために図書 館を利用する姿が感動をよぶのだが、同時に、ア メリカには今なお非識字者が少なくないという事 実を知らされたりもするのである。
 −などなど、映画と図書館の話しは尽きない。  「映画とは世界に向けて開いた窓である」とい う言葉が実感される次第である。

2.心の鏡としての映像表現

 ところで幾つかの映画における図書館の描き方 には、ある特徴的なパターンがある。
 図書館は静かでなければいけない、本やカード は整然と並んでいなければならないというテーゼ が在るが、利用者はここに一種無意識な抑圧感が あるのだろう。その裏返しの破壊願望を映画は叶 えてくれる。例えば館内で大きな声を出したり踊 り出したりして、図書館員らに「シー」と咎めら れる(『ミュージックマン』『メジャーリーグ』 など)とか、書架に懸けた梯子からすべり落ちて 頭の上に本がドサドサ降り落ちて来たり(『天国 と地獄』など)、本を投げ飛ばしたり吹き飛ばし たり(『ファールプレイ』『It』)といったシ チュエーションが飽くことなく繰り返されている。
 さらに映画の作り手(と観客)の本音が出るの が、映画に登場する図書館員の性格づけであろう。
 古くは『フィラデルフィア物語』(40年) に、 妙な言葉使いのいかにもオールドミス風の女性司 書を茶化したような描写があるし、厳格な本の番 人で冷たく意地悪な図書館員像も時々登場するが、 『ソフィーの選択』 (82年) の図書館員などは、 移民のヒロインが片言の英語で本の所在を尋ねる のを邪険に追い払い、彼女を失神させてしまう。
 『さよならコロンバス』(69年) の主人公の 青年はニューアーク公共図書館に勤めているのだ が、自分の仕事に誇りも将来性も感じておらず、 60年代のモラトリアム世代を体現するような覇 気のなさ、責任感の希薄さはとても好感できる人 物像とは言いにくい。
 ここで邦画に目を転じてみる。
 図書館員を主人公とした日本映画の焦眉は、東 宝特撮シリーズの『ガス人間第1号』(60年) だが、彼の劇中の台詞がふるっている。「…高校 を出て大学へ行けない者は何をしたらいいのか? 僕は航空自衛隊を志願したんです。体格ではねら れてジェットに乗る夢はパー。八百屋の店員にな るよりマシだと思って図書館に勤めました…図書 館に勤めたら何か勉強できそうに思ったんだが、 僕にとっちゃ青春をすり減らしただけでしたよ。」 彼は生体実験でガス人間(透明人間) になると、 銀行強盗などの悪事を重ねるのだった。
 『ペンギンズ・メモリー 幸福物語』(85年) はアニメ映画。従軍体験で傷を負い、挫折感を抱 えた若者が旅に出るが、流れついた田舎町で「本 に囲まれて暮らしたい」などと言って(いともあ っさりと)図書館員になってしまう。恋人が一緒 に町を出ようと誘っても「静かに暮らしたいから」 と断り、彼女から「何よ、静か静かって。世の中 は図書館の中とは違うのよ」と非難されてしまう。
 夫を亡くした女性が生活に困っている所を周囲 の人が同情して図書館に勤めさせてあげるといっ た設定が気になる映画もあるし(『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』)、性的鬱積を抱えた女性を象 徴するような職業として描かれたり(『猫のよう に』『ダブルベッド』)、清純だが融通のきかない 堅物の女性司書といった役どころも目立つ(『君 は僕を好きになる』『さよならこんにちは』)。 昨年人気を博したテレビドラマ『素顔のままで』 もその典型で、ヒロインの女性司書は自分の職場 を世間と没交渉の小さな世界と信じて内向してい るが、自由奔放な友人の生き方に触発されて自ら の才能に目覚め、さっさと図書館を辞めると、が ぜん輝きだすのであった…。
 要するに図書館員というのは、何らかの挫折な り鬱屈なりを抱えており、社会の生産的な第一線 からは退いて本に囲まれた静かな生活を過ごした いというようなことを言って生気に乏しいが、腹 では何を考えているかわからないような人間像を 描きたい場合の恰好の職業ということになるよう だ。これは映画に出てくるその他の多くの職業− 医者、刑事、弁護士、記者、教師、科学者、軍人 などが、それなりに多様な性格を持った人間像と して描かれているのに比べると、いかにも一面的 ・画一的であり、安易な気がする。
 無論、これらの描写の多くがフィクションであ ることは誰もが理解している。しかし映画とは、 それが虚構であるがゆえに、よりそれらしく描こ うとするため、世間のイメージとかけ離れた突飛 な人物像や職業感というものは描かないものだし、 それゆえに受け手の側はやすやすとその設定と物 語を受け入れるのであって、描かれたイメージは その意味において、やはり広く社会に平均して敷 衍されている多くの人々の心を写したものだと言 えるのである。
 つまり映像表現には問わず語りにその本音が滲 み出てくるもので、そこに意図的な悪意などがな いほど、その表現者の、ひいては世間一般のイメ ージの共通項が浮かび上がってくるというところ に分析の余地と洞察の面白さがあると思われる。
 それにしても映画の中の図書館員像というのは まことに惨憺たるものである。こうしたイメージ の普及は、現職の図書館員や将来図書館員になろ うとする若者の思考や行動に決して良い影響があ るとは思われず、イメージチェンジのためのパブ リシティーの展開が必要ではないかと思われる。

 ところで人々が図書館を利用する際の意識につ いて問題点を指摘できそうな映像として、次の2 つのテレビ映画を論考したい。
 ひとつは浅野ゆう子が図書館員を演じた『知り すぎた女』(87年日本テレビ)である。彼女が 勤める図書館に文字の切り抜かれた本が返却され、 その文字を埋めてみると少女誘拐の脅迫文になっ ていた、という話。もうひとつは『雨の脅迫者』 (90年フジテレビ)。風間杜夫扮する予備校教 師が図書館で借りた本の中に、その本の前の利用 者だった主婦役の大竹しのぶが頁の間に挟んだま ま忘れたラブレターを見つけ、脅迫ともいたずら ともつかない電話を繰り返すうちに心が惹かれあ っていく、という恋愛サスペンスである。
 これらの作品のバックボーンとなっているもの に筆者は、いささかひっかかるものを感じる。そ れはこの2つの物語が、ひとつの本を大勢の人間 で使うという図書館のシステムに対して、本を介 在して他人と触れ合うことへの漠然とした不安感、 ないしはそこから何か出会いがありそうだという ような恋心にも似たほのかな期待感のようなもの −さらに言えば非常に無意識的ではあるけれども、 そこ(本)から何かが伝染るのではないかという ような、多湿なアジア的風土に根ざした生理的警 戒感−それら全ての感情がない混ぜとなって、本 を‘借りる’ことで‘何かが起こる’のではない か、と身構えるような心理的土壌が、物語の作り 手と視聴者に共有されているからこそ成立するド ラマなのではないかということである。
 筆者の知る外国映画には図書館の本を介して他 人との関係が生まれていくといった物語は見いだ すことができない。その点で前記2作品には、図 書館の本は他人の手が触れていて何か抵抗感を抱 いてしまうという、わが国の一般市民の深層心理 を足掛かりにしているところがあるように思われ、 そこにひいては、図書館利用に対する社会的認識 の未成熟さまでが見てとれそうな気がするのだ。
 もちろん、このような解釈は慎重であらねばな らないが、多様な視点を持ちながら映像メッセー ジを読み解き、社会的深層心理といったものをす くい取ろうとする試みは、それなりに興味深いこ とと思われるのだがいかがだろう。

3.知的好奇心に応える映像情報サービスを

 カリフォルニア大学の保健学者らが、この30 年間に公開された人気映画を各年2作づつ無作為 に選んで調べたところ、煙草を吸うシーンはあま り減っていないが、画面に登場する灰皿の数は明 らかに減少しており、例えば64年の『5月の7 日間』では1分間当たり0.11個であったのが、 90年の『7月4日に生まれて』では0.01個 へと激減しているという4)。
 傑作な話しだが、映像メディアが生活意識の深 層に及ぼす影響を計る一つの方法を示唆している ようで面白い。もちろんメディアと社会的影響の 関係は多くの場合、定量的な計測が難しいが、常 に批評と洞察の目を向けながら、そのメッセージ を多角的に把握していけるような映像リテラシー を身につけることは、これからの現代人に必須の 能力だと言うことができるだろう。
 そうした知的活動を支えるシステムの一つとし て図書館の視聴覚サービスに期待されるところも 大きい。これからの図書館は、劇映画を含む視聴 覚資料の体系的な収集整備と、その情報価値を十 全に発揮できるようなデータベースの構築によっ て、映像文化の多様な価値性を利用者に提供して いくことが求められるし、そのための様々な情報 ツールも次第に充実してきている。
 例えば「図書館が出てくる映画」といった特定 主題で映画情報を探索するためのデータベースに 『マーギルズ・サーベイ・オブ・シネマ』がある。 これはアメリカの映画専門機関が作成した映画事 典の電子版(オンラインやCD−ROMで利用で きる)で、タイトルや監督・出演者等のほか、映 画の内容と解説、評論記事の所在などを含み、そ の全ての項目のいかなる単語からでもめざす映画 を検索することができる。つまり“Library”と か“Librarian”というキーワードによって数十 本の映画が出力されるので、本論のような研究に とって貴重な情報源となる5)。日本映画には、ま だこれに匹敵するような情報ツールはない(あえ て言うと『ぴあシネマクラブ電子ブック版』にそ の萌芽が見られる)が、図書館業務の電算化・ネ ットワーク化の急速な進展によって、視聴覚資料 データベースは着実な充実が図られており、様々 な形で利用者への提供が可能になってきている。
 こうした情報サービスの蓄積によって、図書館 の中でメディアの壁を越えた知的冒険ができるよ うな仕掛けが出来上がっていけば、人々の図書館 と図書館員に対するイメージというものも、自然 と素晴らしいものとして広がっていくことだろう。


1)1991年8月16・23日号『アサヒグラフ』pp.57-73
2)大出玲子とシネマオレンジ著『女の視点でみれば映  画は2倍面白くなる』(主婦と生活社刊,1991年)
3)市村省二/映像メディアの知的活用法を探る『図書  館雑誌』 Vol.86,No.1, pp.33-35 参照
4)朝日新聞, 1992年11月14日(夕刊)p.19
5)永原和雄/“Magill's survey of cinema”を使って  『視聴覚資料研究Vol.1-3 合冊版』pp.148-149 参照




  • 上記文献は下記の論文をもととしたうえで新たな見解も加えて構成したものです
     伊藤敏朗/映像表現における図書館と図書館員像に関する論考,視聴覚資料研究.Vol.2, No.3, pp.120-123(1991.1)

  • "図書館映画"については下記のサイトで充実した情報を得ることができます
      Ichimura's homepage/市村省二氏のホームページ http://www.bekkoame.or.jp/~ichimura/
      ギャスケル・ブロンテ・図書館映画/飯島朋子氏の書誌索引の世界 http://www.lib.hit-u.ac.jp/iijima



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