初出:Library & Information Science News, No.76 (1993.9) pp.57-62

視聴覚資料と大学の教育


〜大学図書館における視聴覚サービス論の糸口〜



伊藤敏朗



1.芥川龍之介の時代というもの

 ある日のことである。芥川龍之介のファンで あった私は、彼に関する文献を探して昭和2年 7月25日の東京朝日新聞のマイクロフィルムを リーダーに装填した。紙面は芥川の服毒自殺に ついて、その頁の大半のスペースをあてて報じ ていたが、私はその片隅の小さな記事に目が釘 づけになった。それは次のような全文である。

 『飛行機で二児を殺傷 相澤飛行士が不時着 陸で 新屋海水浴場の惨事 【秋田特電】二十 四日午後二時半頃 秋田市外新屋町新屋飛行学 校相澤潔飛行士は練習中機體に故障を生じ 新 屋飛行場に不時着陸せんとし 突風にあふられ アナヤといういふ間もなく新屋海水浴場に機體 を突つ込み 折柄の梅雨晴れに水泳中の新屋町 新開地吉太郎二男大澤興一郎(九才) 同じく 谷藤萬蔵長女はな江(一〇)をプロペラにかけ 興一郎は胴と脚を切断されて無残の即死を遂げ はなえも生命危篤 相澤飛行士は不時着水の際 腕に負傷し機體は大破した』

 私はこの記事に接したとき、たちまちのうち に芥川龍之介の時代というものを理解した−か のような思いがした。この記事の描写の残酷さ もさることながら、芥川自殺の報に対してこれ ほど扱いに格差のついた紙面編集に、当時の世 相の何やら暗くグロテスクな一面を垣間見たよ うな思いがしたのである。もし1993年のいま自 衛隊機が行楽地に墜落して市民を犠牲にしたな ら、わがマスコミの扱いはいかばかりであろう。 と考えれば、芥川の時代の人々、とくに新聞記 者や文芸家らインテリ階層の社会観とか人権感 覚には今とはずいぶん乖離したものがあったの ではなかろうか。そういう認識を背景に、芥川 龍之介の人と作品を見直してみたとき、私は、 この記事に接する前に自分が抱いていた彼のイ メージ−近代的人間観と自意識に根ざした新理 知派−といったような通りいっぺんの理解に、 何か別な色彩が加わってしまったことを感じた。
 うまく説明しにくいが、それは私の理解に陰 影と深さを増し、より本質的な部分に肉薄でき たかに思われたのだ。

2.異種メディア融合による理解の面白さ −ストックがきいてきた視聴覚資料の世界

 ところでマイクロフィルムは視聴覚資料なの だろうか、違うのだろうか。
 実は私自身は、マイクロフィルムは形態こそ フィルムでも中身は文字情報なのだから視聴覚 資料とは言えないと思っていた。しかし芥川の 自殺と飛行機事故の記事はともに文字情報なの に、その割付面積の格差−視覚的な対比のイン パクトが、私の心の中に芥川の時代の‘イメー ジ’を形成させたという、きわめて映像的とい うか非言語的な体験だったのである。
  マイクロフィルムは原資料の光化学的複製だ から、該当の文章のほか、写真や広告をはじめ とする雑多な情報やノイズの部分までも一緒に 記録してしまうことで、いわばその時代の空気 までも呑み込んでいるわけである。オンライン やCD−ROMではこうはいかない。新聞のマ イクロフィルムといえば文字の塊のような気が するが、その1コマは実に豊富な視覚的情報に 満ちていると言えそうだ。逆に考えれば、映画 やビデオも、伝達すべき内容の相当部分は台詞 やナレーションなどの言語情報に頼っているわ けで、こうしてみると言語情報媒体と非言語情 報媒体という機能的定義で視聴覚資料をくくる ことも、そう容易なことではなさそうである。
  結局私の興味の行き先は、人間がある対象に ついて、さまざまな情報を通じて獲得した‘認 知’とか‘イメージ’といったものの形成のさ れ方であり、その過程で、言語的な情報と非言 語的な情報がさまざま融合されていくこと、そ のためのあらゆる手段のサービスの提供(をし てもらえること、すること)に関心があるとい うことになりそうである。
  真の理解を得る悦びのためには情報の形態・ 手段などは選ばないという知的貪欲さこそが、 すべての情報行動の源であり、それはもともと マルチメディア的なものではないか。と考えれ ば視聴覚資料とは何かという命題も、さほど意 味のあることではないのかもしれない。
  シェイクスピアに関する第一級資料の収集で 名高いアメリカ・ワシントンのフォルジャー図 書館は、その創設者ヘンリー・クレイ・フォル ジャーが、シェイクスピアに関するあらゆるも のを貪欲に自宅の地下室にコレクションしてい ったことに発している。
 
  『フォルジャー家の地下室にあったのは、シ ェイクスピアの著作だけではなかった。台本、 楽譜、ちらしといった演劇関係はもちろん、そ の劇が書かれ、上演された時代相を理解するの に役立つ大小の物品(中略)各種の職業の人々 の日記、会計簿、公文書、証文、科学上の発見 のメモ、婚約指輪、メダル、短剣、杖、衣裳に 家具類(中略)。これだけ資料が集まると、研 究者が世界中からやってくる(中略)時にはイ ギリスから「わしが本当のシェイクスピだよ」 といって粘る変人もやってくる。もし、フォル ジャーが生きていたら「きっと、その男を大喜 びでつかまえて剥製にし、飾ってしまったので はないだろうか…」』(宇佐美昇三,ある図書 館の伝記,『からくり絵箱』青英舎,1982年, p.22-3所載)
 
  私たちがフォルジャーの情熱に学ぶことは多 い。シェイクスピアの時代に比べれば、今は社 会や時代を映した多様なメディアがたくさんあ る。図書館サービスにおいて、ことさらに視聴 覚資料の重要性を強調しないまでも、それら(図 書以外の資料)を欠くことは、いわば車の車輪が 片方はずれているようなものではなかろうか。
  シェイクスピアは無理としても、トルストイ くらいになると生前の散歩姿を収めた実写フィ ルムを見ることができる1)。20世紀はまさに 「映像の世紀」であり、人類の文化資産として 着実な蓄積がなされてきている。
  テレビを見ていると感じることだが、ことに 近年は各局の映像ライブラリーの整備が進んで、 番組の随所に昔の資料映像が頻繁に挿入される ようになり、現代社会をしばしば映像でふりか えり映像からひもとくことができるようになっ てきた2)。例えば、新しい首相のプロフィルが 紹介される。お殿様のような−と評されること の多いこの人物が、青年時代に初当選した際の ニュースフィルムでは血気に溢れ口角泡を飛ば して興奮して喋っている場面を、私たちはさま ざまな印象とともに観察することができる。
  昔の人気番組を保存映像でふりかえるといっ た趣向の番組がしばしば高い視聴率を稼ぐのも、 テレビの歴史そのものが、社会的な意味を持っ てきたことを示している。つまり人々はテレビ の歴史と『自分史』を重ねあわせて見ていると 言えるだろう3)。
  最近では、そのような映像表現ににじみ出て くる様々な世相や社会的深層心理といったもの を解析し洞察を加える試みも活発である。ハリ ウッド映画に出てくるステレオタイプな日本人 ・アジア人像の分析からコミュニケーション・ ギャップの問題を提起した『イエロー・フェイ ス』(村上由見子,朝日選書,1993年)や、日 本映画に描かれる女性像が、美少女やマドンナ など男性側に都合の良いイメージに偏っている ことなどを指摘した『女の視点でみれば映画は 2倍面白くなる』(大出玲子,主婦と生活社, 1992年)などの出版は、私たちが共通に理解し ている社会的基盤としての映像メディアを、い ってみれば考現学的に切り取って成功した例で ある。ゴジラ、ウルトラマン、サザエさんなど 世俗的な題材から往時の世相を分析するなどの こともちょっとしたブームになった。
  私も映画に登場する図書館員像というのを集 めて研究してみたことがあるが、これがどうに もカタブツで暗くて気弱で、といった描き方ば かり多くて閉口した。映像表現というのは言語 情報に比べ、製作者や観客のたくまざる本音の 部分が透けて見えるようなところが、面白いよ うな悲しいような気持ちになったものである4)。
  余談めくが、経済問題を中心にしたある本を 読んでいたら、映画『バック・トゥ・ザ・フュー チャー』の一場面として、30年前のアメリカの ガソリンスタンドのシーンが引用されていた。 客の車がスタンドに入ると、ユニホームを着た 店員達がバラバラと4〜5人出てきて窓などを ふき始めるのを見て、アメリカの観客はドッと 笑ったそうである5)。日本のガソリンスタンド の過剰サービスに慣れた私たちにはこの場面が 笑えない。アメリカでも昔はこうだったが、現 在ではセルフサービスが常識だという国情の違 い(サービスのコスト感覚の差)が、こうした 娯楽作品からもくみ取れるという指摘なのだが、 なるほどと唸らせるものがあり、こんな逸話を 大学の講義でしたら、学生たちもきっと興味を 覚えるのではないかと思った。
  これらの論考や引用が可能になったのも、ビ デオの普及などにともなって、映像メディアが 身近な社会的、文化的資産としての蓄積を効か せてきたことがバックボーンであることは間違 いあるまい。
  南で火山が噴火したと聞けば、ナショナル・ ジオグラフィック『怒れる地球−活火山』(T DKコア,レーザーディスク51分) を見ること ができ、北に津波が襲来すればNHK特集『目 撃された大津波 日本海中部地震の記録』(ポ ニーキャニオン,VHS 60分) があるよといえる くらいには図書館での視聴覚資料の蓄積も効い てきたし、今後とも充実が期待されている。
  基本的には図書館の情報ストックというのは、 主題や形態などにかまわず多ければ多いほど良 いものである。ただ網羅的にため込んでいくこ とでも重要な資産になり得る。例えば劇映画の ストックから往時の風俗を読み取りたいと試み るなら、映画を名作と駄作に選別して収集する ことはほとんど意味のないことである。
  図書館は早く生まれすぎた情報を遅くやって きた利用者に提供するためのタイムシフト装置 であり、時間のエネルギーを空間のエネルギー に置き換えて蓄積しているのだともいわれるが、 何でも呑み込む巨大な胃袋−これに‘知的な’ という形容詞でも付ければ、図書館の文化史的 役割の一つは言い当てることができるのではあ るまいか。
 
3.資料と教材のはざまで−図書館と視聴覚セ ンターの古くて新しい課題
 
  視聴覚資料と図書資料のボーダーラインで議 論になるのはマイクロフィルムだけではない。 図書館法で企図される視聴覚資料の範囲には、 美術品、模型、展示物、紙芝居、掛図、ポスター、 図表などが含まれているが6)、これについて大 学図書館員からは「それらは視聴覚資料ではな くて視聴覚‘教材’だから、図書館ではなく視 聴覚センターで扱えばよい」といった突き放し た見解を聞くことがまま多い。
  大学図書館では‘教材’とか‘教具’という 言葉はあまり使われない、あるいは好まれない 傾向がある。図書館は資料は集めても教材は提 供しないところなのか、というかすかな疑念を 感じてきた。ただの言葉の問題では片づけがた い視聴覚サービスの一つの論点がここにある。
  より直截的に言えば、図書館と(学務系統の 職員から編成された)視聴覚センター(L.L.を 含む)のはざま、あるいは一種の対立関係が顕 在化していると言うべきかもしれない。
  たしかに同じ視聴覚資料でも、図書館内で個 人視聴される‘資料’と、教室で大勢の学生を 前に映写したり、複製を学生に配付して演習さ せたりする‘教材’とは異なる運用の実態を呈 するものだ。資料の静的利用に対する教材の動 的利用とでも言おうか。16ミリ映画のように上 映に若干の技術を要したり、語学カセットのよ うに数が多くて散逸しがちなものなどは取り扱 いも厄介であり、「カタロギングし難い」「管理 がしにくい」などの理由で、図書館員に疎まれ がちなことが、図書館における視聴覚資料の充 実を妨げてきたことは事実である。世の中の情 報が、本というものから雑誌・新聞をはじめ様 々な灰色文献、さらには放送や磁気テープや光 ディスク、そしてネットワークへとその重心を 大きく移しつつある割りには、図書館員の持つ 情報の組織化のノウハウは古典的なままだ。
  実はこうした問題は、公共図書館や学校図書 館の世界ではけっして新しいものではない。昔 から、図書館員の側からは「(視聴覚)資料セ ンターなどというガラクタ置場は、図書館の神 聖さをけがすものだ」というような意見が出た り7)、視聴覚センターの職員からは、図書館員 は学校運営や教育に消極的だとか、新しい技術 に不勉強だといった批判があったのであって、 多かれ少なかれそれと似た議論が、いま大学で も行われているのである。
  現在、大学の研究・教育のメディアは大きく 分けて、図書・コンピュータ・視聴覚(L.L.を 含む)の3つの要素で説明され、多くの大学で もこの3つの機能をそれぞれ分担する組織を設 けたり、うち2つ程度を組み合わせた組織編成 をしてみたりといった試行錯誤が続いている。
  その実態はさまざまだが、概観した印象では、 どうも図書館が積極的に視聴覚センターの機能 をも備えて資料も教材も提供し、強力に教育支 援していこうと打って出るよりは、互いの位置 づけを分離し‘棲み分け’ていこうとする方向 が見受けられる。
  これも公共図書館と公共視聴覚センターとの 関連の議論8)に似たところがあるが、こと大学 という研究・教育機関の中で考えてみた場合、 これは相対的にみて大学図書館が本来有するべ き研究・教育支援機能の矮小化にほかならない。
  また、そのような機能を排除した限定的な範囲 で視聴覚サービスについて議論しようとしても、 多くの場合、各館事情の区区たる問題の差異を 並べた事例発表に終始しがちで、骨太な視聴覚 サービス論の構築にはなかなか至らない。
  図書館としてはここで今一度、もしかしたら 図書も大きな意味での‘教材’とは云えないだ ろうか、といったような視点の転換、自らへの 問いなおしも含めて、学内の研究・教育支援体 制の再構築へ向けた新しい図書館サービスの姿 を打ち出していく必要があるのではないか。そ うした理論と実践の裏付けを欠いたままであれ ば、大学図書館における視聴覚サービスもやが てはジリ貧の状況となるばかりであろう。
 
4.視聴覚資料の教育工学的活用を図るために −新しい研究・教育支援体制の確立
 
  「大学冬の時代」をむかえ、各大学ではその 教育の内容や方法の改善と、その支援サービス 体制の整備が大きな課題となってきた。
  シラバスを作成し、単元の到達目標や年間講 義計画を明らかにするなどのこともその一つだ。
  授業のどの場面で、どんな視聴覚資料を、ど のように提示するかについて事前に計画し準備 すること、「この講義の時までに、このビデオ を図書館で見ておきなさい」という指定教材を もうけるなどのことは、視聴覚資料の教育工学 的な活用にほかならない。
  また、効果の測定とフィードバック、個々の 学生の理解度にあわせた適用など、さまざまな 局面でも視聴覚資料の活用が重要なものとなり つつある。ほかにも、授業評価、使える語学教 育、放送大学ほか他大学との単位互換、公開講 座の実施や図書館の地域開放などのキーワード で示される教育改革の動きは、いずれも視聴覚 資料の教育工学的効果が十分に発揮されるべき 好場面を提供していると言えるだろう。
  視聴覚資料の持つ強い動機づけや感性的訴求 力を巧みな刺激としながら、学習の主体である 学生の自発的な興味や関心を高め、理性と感性 のバランスのとれた知識人の確立を図るという 近代的教育観の理念というものについて、大学 スタッフはより自覚的であるべきだろう。「面 白い講義、わかる講義」が「大学にとって十分 目玉になりうる」時代だということである9)。
  こうした教育を実現する背景には、教室での メディア活用をスムーズなものとするための環 境整備とならび、個々の学生が自らの知的探究 心によってAVやコンピュータ等の情報機器を 操作し、編集し、コミュニケートしていく能力 を高めるための、個別学習と自己表現の手段や 機会が潤沢に与えられる必要がある。そしてそ の受け皿としては図書館が最もふさわしいとし て期待されているのである10) 。
  慶応義塾大学湘南藤沢キャンパスの高橋潤二 郎教授は、高度情報化社会における高等教育の 姿というものは、「知識の修得から技法・スキ ルの修得へ、教室の授業からフィールドワーク、 ディベート、実験・実習を中心とした教育へ、 教材はノンプリントメディアへ−と変貌をとげ ていくであろう」とした上で、「これら教育の 多様化に従って、それをサポートする教師その 他の支援者が多数必要になってくるだろう」と 指摘している11)。
  こうした状況の中で大きく浮上しているのが、 教員と学生との中間に立つ、強力なマンパワー の必要性である。
  米国の学校図書館基準では、その1969年版に おいて、早くも学校図書館基準と視聴覚基準を 統合・一本化した「メディア・プログラム」と いう概念を樹立した。そこでは、学校図書館と か視聴覚センターという言葉をやめて、全ての 資料を一元的に考える「メディア・センター」と いう考え方を採用し、それを運営する人々を、 従来のライブラリアンとかAV主任という言葉 を廃して、「メディア・スペシャリスト」と呼 んで、新しい専門的資質や技能を要請したので ある12)。わが国の大学教育の現場からも、こう した新しい職能の必要性がようやく叫ばれるよ うになってきた。が、大学(ことに私学)の人事 政策においては、こうしたタイプの職員の採用 や処遇には大きな困難を感じることも事実だ。 当面はやはり現有職員の能力を再開発して対処 していくことが現実的であり、そのための十分 な研修プログラムが与えられるべきだろう。
  こうした職能に求められる役割には、機器の 操作や保守にあたったり、教材の制作を行った り、教室で授業の進行を助けたりするなどの現 業的なものも含まれる。そのいくつかは学内の アシスタント・シップの活用や業務の外部委託 などによってもある程度はやりようがあると思 われるが、これからの大学スタッフとしてとく に求められているのは、教育現場の実情を個々 のパーソナリティーのレベルまでよく知り、責 任感と一貫性をもって人と資源をコーディネイ トしていく能力ではないだろうか。
  その資質としては、学内外の学術・研究情報 のあり方やその活用の手法、情報メディアの特 性や教育効果を知り、情報リテラシー教育の術 をも備えた有能なナレッジ・マネージャとして の専門性と、それらの研究・教育支援サービス を統合的に構想し、必要な資源や環境整備のた めに、組織の内外と交渉したり啓蒙したりして いく役割を担った先見性あるゼネラリストであ ることとが同時に要求される。そのための能力 開発は、これからの大学に働く全職員あげてと りくむべき課題だが、その先鋒にまず立つべき が図書館員であることは間違いなかろう。むろ ん増員や長期研修が必要な場面では、しっかり とした声をあげ要員が確保されていくべきだ。 そのためにも図書館や視聴覚センター、情報教 育センター等の関係部署の統合的把握と協力的 運営が図られ、その教育工学的活用を飛躍的に 促すような研究・教育支援サービスの理念とモ デルが広く提唱されていくべきであろう。
 
5.AVライブラリアン−これからの使命
 
  もしも視聴覚資料が、大学の研究・教育にと って本当に必要かつ抜き差しならないものなら ば、視聴覚サービスの実情も現在のようなもの ではなかろうという思いが私にはある。
  大学図書館の視聴覚資料の収集は、市販のカ タログから映画を選んだり、その巻末に申し訳 程度についた「教養・ドキュメンタリー」 とい った頁から拾うか、業者のDMに頼るなどのこ とが大半である。そのことが批判されるいわれ はないが、この視聴覚資料にして、わが大学の 研究・教育に欠くべからざるものがあると云う には迫力に乏しいことが多い。しかし資料収集 のアンテナをはりめぐらせば、学術研究資料と して重要な作品はたくさんあるはずである。
  例えばドイツのG.ヴォルフ教授が創始した ECアーカイブズという、国際映像百科辞典の 編纂事業がある。このアーカイブの作品はテレ ビの教養番組のようなものを期待していたら全 くアテが外れる。まず音声やカラーは対象の記 録に不可欠な場合(音楽や美術など)のほかは 原則用いない。つまり白黒・無声で短編が多い。 当然ナレーションもBGMも情感描写もなく、 生の映像記録そのもの。つまり編集され完成さ れた映画というより今撮ってきたばかりの素材 フィルムそのものに近く、「動く百科事典」の コンセプトが徹底している。このアーカイブに は例えば民族学だけで約1500本の映像が収録さ れており、二度と撮影不可能な貴重なものも数 多い。ノイズがない分、研究資料としての高い 価値をもった映像資料といって良いだろうと思 うのだが、こうしたコレクションを日本の大学 図書館はほとんど購入していない。というより 図書館員がそうした存在を知らずにおり、文化 人類学などの教科の教員に対しても『NHKシ ルクロード』のビデオなどを紹介する程度でお 茶を濁しているような現状なのである。
  世界各国の企業や政府・公共団体などが製作 した産業・科学映像の世界的なライブラリー・ ネットワーク“INTERMEDIA”も、先進国では日 本だけがそのサービス拠点を現在、持っていな いというのは寂しい話しである。わが国の牛山 純一や姫田忠義らがおこなった文化映像のすぐ れた蓄積の仕事も図書館界ではほとんど認識さ れてはいないというべきであろう。
  わが国ではノンフィクション映像の系譜や文 化資産としての蓄積、評価、流通などのことに 関心を抱く図書館員がまだまだ少ない。実際、 図書館員は自館で受け入れた視聴覚資料を自分 で見ることもあまりないものである。
  それでも視聴覚資料に何らかの資料価値を認 めて購入するのは、自分が普段親しんでいる映 像メディアの情報体験から、内容も映像ならわ かりやすいだろう、学生も面白がって勉強する だろう、というような期待をこめてのことであ る。しかしキー局のテレビ番組のように1分当 たり数百万円というコストをかけて製作される 品質と同じ水準が一般の市販資料に保証されて いるわけではない。冗漫な出来のビデオなど見 るより文献を読んだほうが、よほどわかりやす くて効率的なことも少なくない。視聴覚資料の 評価と選別の眼力を養うことの必要性は、良書 を選ぶ責任とかわるところがない。
  各館の視聴覚資料担当者や映像専門ライブラ リーの職員が連繋して、研究・教育場面での活 用事例を検討したり、互いのレビューを交換す るなどの運動も必要であろう。また資料の受け 手(教員・学生)の声を、送り手(ソフトの製 作者)にフィードバックしたり、送り手の側の 制作のねらいや作品にかける思い入れなどを聞 く機会も設けていきたいものである。そうして 自らの職務の意義に自覚的なAVライブラリア ンが育ち、良い資料を貪欲に収集・購入してい く、さらには採算性が悪くても優れた内容の資 料なら大学図書館のマーケットによって再生産 が促されるというくらいの状況になってくれば、 大学教育の水準にかなった視聴覚資料の世界も より豊かなものとなり、著作権ほか諸々の問題 解決にも大きく展望が開けてくることとなろう。
  何より図書館サービスにおいては図書資料と 視聴覚資料が有機的に結びつけられてこそ、そ の真価が発揮できるものであるはずだ。そうし たマルチメディアな研究・教育・学習の環境が 創出され、そこで利用者が自らもとめて真の理 解を獲得できた時、図書館利用の感銘は深まり、 大学教育の目的とも合致したかけがえのない存 在となっていくことだろう。
 

1)ビデオ『素顔のロシア文学作家 Vol.2 リオ・トルストイ』 VHS,30分(発売準備中)
2)伊藤敏朗:放送映像ライブラリーをめぐる最近の見学会・フ ォーラム・文献から,視聴覚資料研究Vol.1-3 合冊版,私立 大学図書館協会視聴覚資料研究分科会 (1992) p.124-5
3)川野昌宏:市民のための放送ライブラリー 実現へ向かって 前進か,放送ジャーナル (1989.1) p.36-7
4)伊藤敏朗:映像メディアにおける図書館・図書館員像,視聴 覚教育,Vol.47,No.6 (1993.6) pp.24-27
5)大前研一:平成維新,講談社 (1989) pp.72 6)文部事務次官通諜:司書および司書補の職務内容 (1950)
7)井沢純:学校図書館法に思う2,図書館年鑑1983,日本図書 協会 (1983) p.313
8)長倉美恵子:メディア環境の変化の中での他施設との関連− 特に図書館との関連,教育メディアの多様化に対応する視聴 覚センター・ライブラリーのあり方 第4章,視聴覚教育, Vol.47,No.7 (1993.7) pp.42-47
9)朝日新聞1993年7月21日夕刊:学生の関心を学問に向けるに は−身近な素材でまず興味を(中京大学福村晃夫氏談話より)
10)11)高橋潤二郎:図書館を越えて−新しい研究・教育支援を 目指して,第53回私立大学図書館協会総大会・研究会 (1992 年7月29日,慶応義塾大学)におけるパネル講演から
12) アメリカ・スクール・ライブラリアン協会[ほか]編:メ ディア・プログラム アメリカの学校図書館基準,SLA(1977)




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