初出:『一夏会報』 Vol.45 (1995.12) pp.8-30

“コンピュータのイメージ”をめぐる一考察

〜映画『APOLLO 13』を見て感じたこと〜




伊藤敏朗




1.映画に観るコンピュータのイメージ

 1970年4月、月面着陸を目指して打ち上げられたアポロ13号は、月まであと1歩という 宇宙空間で突如の爆発事故にみまわれ、搭乗員達はあわや太陽系の藻屑と消える危機に直 面する。その直後から繰り広げられる彼ら宇宙飛行士と地上管制官達との息詰まる救出劇 を描いた映画、『APOLLO 13』(ロン・ハワード監督)を観た。
 映画は25年前の史実を描いているが、ここで描かれる状況やテーマは1995年の今になっ てこそ、われわれ大衆にとってはじめて受け入れられ、理解されるものになったのだとい う気がした。
 例えば、メインコンピュータ(今の目で見ればパソコン程度の演算能力しか持たないが )を、バッテリー確保のために一旦落とさねばならなくなり、データをバックアップに転 送して保護する一方、飛行士は野性の勘で機体を操って軌道を修正していくという場面。 また、電源再投入の手順をどうすれば最も消費電力をセーブできるか、地上のシミュレー ション装置で徹底的に検証を繰り返す−しかし再びシステムを立ち上げようとするとき、 機器はびっしょりと霜に濡れているという場面、あるいは空気清浄器の接続口の形が合わ ないために、飛行船内の限られた材料で(例えばマニュアルの表紙のボール紙を破くなど して)手製のアジャスターを作り出すという場面…。
 こんな複雑で難解な状況を‘映画的スリル’として観衆が理解し楽しめるということ自 体、考えてみるとちょっと凄いことではないかと思った。
 ここには、巨大プロジェクトの陥弊とか、システムやコンピュータというものの本質的 な脆弱さ、一方でそれを乗り越えていこうとする人間系の能力−情報分析と意思決定、組 織化され訓練されたプロフェッショナル達の巧みなネットワークなど、「システムと人間 」あるいは「コンピュータとのシンビオシス」といった極めてレベルの高いテーマが扱わ れている。それを見る現代の大衆の側にも、情報機器に囲まれ、組織と個人の関係につい て常に考えさせられている日常生活があるからこそ、この映画のメッセージを非常に今日 的で身近なものとして咀嚼できるということであろう。
 こんな指摘も、今では「なんだ分かりきったことを」と言われそうである。しかしつい 最近まで、映画の中のコンピュータというものの描かれかたは、こうではなかったのであ る。
 『2001年宇宙の旅』(1968年)から『ウォーゲーム』(1983年)、あるいは『スタ ートレック』(1979年)や『ターミネーター』(1984年)といったSF映画に登場する高 性能コンピュータ達は、人知を越えた能力を備え、自我に目覚めたあげく、人間に反旗を 翻し敵対的行為へと暴走した。そういう物語が大衆に受け入れられたのである。
 映画とは‘大衆の心の鏡’であり、このようなコンピュータの描かれかたも、その台頭 によって自分達の能力や存在が矮小化されてしまうことを恐れる大衆の本能的な嫌悪感の 顕れにほかならないのではないかと思われる。その背景には、管理社会や全体主義的傾向 への反発、産業社会の息詰まり感なども二重写しになってくる。チャップリンの『モダン タイムス』(1938年)の遺産を、映画は自ら模倣し長く食んできたのである。
 それにしても確かにコンピュータというモノは、少し昔まで、巨大で高価で複雑極まり なく、一般大衆にとってはある意味で神話的、またはオカルト的存在とでも言うべきもの に違いなかった。かつてローマクラブは、コンピュータは超高性能なものが世界に1台あ れば良く、そこに世界中の端末がぶらさがっていればいいのだと真面目に考えた。(そし てその1台は、当然ローマに置かれるべきだ−と。) 今の時代からみれば、不思議なほど イマジネーションの欠如した主張ではあるが、大方の人が昔はそんなふうに考えていたの だろう。
 映画というものは、時代の最先端に敏感なようでいて、その拠るところは極く一般的な 人々の科学的知識とか認識程度である。映画人とは概ね大衆芸術家であり、どちらかと言 えばテクノロジの進歩にはめっぽう弱い文系人間なのである。
 では現代のコンピュータはどこで、いかに変貌したというのか。それはネットワーク化 である。

2.コンピュータ・ネットワークの発達

 大型汎用コンピュータによる集中処理システムは、本体の能力を高性能なものにするほ ど利用が集中して能率が落ち、さらなる高性能化、コスト増が要求されるというジレンマ に陥る。また本体に大量のプログラムやデータが集中することで管理コストが増大し、端 末の場所が広範囲に展開するほど通信コストも嵩むなど、どこかで限界に達してしまう。 そこで複数のコンピュータ・システムをネットワーク化して機能や負荷を分散し処理しよ うとする方向が求められた。過剰な一点集中を排してリスクを分散し、システム全体とし ての強さや安定性を高める上でもネットワーク化は大きな意味があった。
 コンピュータ・ネットワークは製造・流通・サービス産業などの発展に大いに寄与した し、学術研究の分野でも大型コンピュータの遠隔利用などの利便をもたらしたが、そうし た中で意外に面白くて実際の役にも立つというのがわかったのは電子メール−つまりコン ピュータ・ネットワークを通じた手紙のやりとり、ないし、おしゃべりであった。
 実のところコンピュータの優れた演算処理能力によって何ができるのか、ということは 長い模索の時代があった。無論、計算は得意だった。ところがそのコンピュータどうしが ネットワークされた先にいたのは人間だった。そして人間どうしのコミュニケーションが 結局一番面白いということが‘発見’されたのである。
 電子メールを楽しむ人にとって、コンピュータはもはや語義通りの計算機械ではない。 友人との会話に心なごませる場であり、仕事や研究のアイデアの宝庫でもあり、世界に開 かれた窓なのである。
 今年1月の阪神・淡路の大震災では、電気・電話網が壊滅し多くのシステムが混乱の極 みに陥った。しかし、その後の全国各地からの救援物資の集積・輸送、被災者の安否や非 難先情報、ハンディキャップを持った人々への支援やボランティアの派遣などについて、 生き残ったパソコン通信網は昼夜を分かたず膨大な情報を発信し続けた。このことは、コ ンピュータ・ネットワークが人間同士を結び合う絆の新しい形態として有効に機能し得る ことを示すものだったとも言えよう。
 パソコン通信で出会った男女は、容姿や学歴抜きで相手の人間性を把握できるので純粋 な恋愛が生まれるということを言う人がいる一方で、通信を悪用した詐欺、いかがわしい 勧誘、いわれのない非難や中傷など、人間のさまざまな美醜もそのまま反映されている。
 「コンピュータ社会」という言葉がかつて抱かせた冷たいイメージとは裏腹な、極めて 人間的な、あまりに人間的な世界がそこにある。
 このようにコンピュータの先にいるのは何か神話的存在ではなく、畢竟、生身の人間な のだ、という認知はここ数年で広がってきたものだ。映画の中でコンピュータ・ネットワ ークを描いたものというのは、まだあまり多くないのではないかという気がする。
 フランス映画の『スチューデント』(1988年)では、ミニテルの端末を使って資格試験 の合格発表を見るという場面が印象的だったが、‘LANの上での大立ち回り’という点 では、『今そこにある危機』(1994年)がある。ハワイトハウスのLANにつながれた2 台の端末から、2人のライバルが寸秒を競ってキーボードを叩く場面が出色だった。
 これに比べると少し前まで放映されていた日本のある子供向け番組で、ネットワーク回 線から怪獣が転送され、パソコン内の電子回路都市で変身ヒーローと格闘するという話し は、どうもコンピュータのモンスター化とか、「パソコンおたく」っ子への偏見、さらに はネットワークによって他人と触れ合うことへの潜在意識下の警戒感といった旧い感覚か ら未だ抜け出せていないという気がした。

3.コンピュータを使いこなす‘イマジネーション’の大切さ

 いまや学術研究の分野だけでなく、広く産業界も巻き込んで爆発的な発展を遂げた世界 最大のコンピュータ・ネットワークがインターネット(the Internet) だということは、 説明を要しない。
 ところでこれを、「コンピュータの電話網みたいなもの」と説明する人がいて、最初は なるほどと思ったのだが、少し事情を見てみると、とてもそんな立派なものではないとい うこともわかってくる。
 インターネットは、それぞれが独立して機能している小さなネットワークが地域的なネ ットワークを結び、さらにそれらが全国的、国際的なバックボーン・ネットワークによっ て結びつけられたものだ。それぞれのネットワークは基本的に独立して運営されており、 インターネットはそのゆるやかな連合体にすぎない。
 ここには、電話会社やパソコン通信会社のような全体の管理者というものは存在しない 。インターネットのユーザ、特に初期のユーザというのは専ら自らの責任において情報の 交換や提供を行い、ネットワーク運営の一翼をも担っていた。隣あったネットワークどう しが、互いの通信内容をバケツリレーのように手渡しするというボランティアのような仕 事を寄せ集めて、だんだん大きくなっていったという、いわばゲリラ的発生の経緯を持っ ている。
 こういう仕組みでは互いの善意と信頼関係が大事である。隣から託された通信内容を勝 手に開封してしまったり、途中で放り出したりしていてはネットワークは機能しない。自 分のネットワークを万全に管理する責任があるだけでなく、新しい技術を開発したり、自 ら情報サービスを提供することで、ネットワークの魅力を高めていくこともユーザの役割 であった。そしていまも多くの国の膨大な人数のユーザが、このようなかかわり方をして いるため、インターネットの世界はきわめて多様性に富み、一見つかみどころもない。そ のことがこの世界を全体として力強く、柔軟性に富み、成長持続的なものにしているので ある。
 そう思って見てみると、インターネットを電話網のような完成されたシステムのイメー ジで捉えるのはむしろ誤りで、ユーザ自らが守り育んでいく柔らかいコミュニケーション 環境としてイメージしていくべきであろう。
 だからインターネットとは、本来的にユーザ1人ひとりに、高い知的能力と責任感、自 立と互恵の精神というものを要求している。これは、情報ネットワーク社会における非常 に重要なコンセプトと言うべきものである。
 実のところ、日本の大学でも自前のコンピュータ・ネットワークを持っているところは 少なくないが、その内容はというと何ともお粗末な実態を否定できないようである。
 高性能なネットワーク装置は金を出せば導入できるが、それですぐに、ユーザどうしが ネットワークを通じて有意義なコミュニケーションをしたり、魅力ある情報発信をできる ようになるかというと甚だ怪しいものがある。ここには、一人ひとりの自由な発想や表現 への情熱というものが不可欠なのだが、この点こそが、わが国の教育における泣きどころ なのである。
 私たちが親しんできた教育方法は伝統的に、個性の表出や自由な創造力というものを育 むことに概ね不向きな傾向性がまだまだ強く、このことが集中処理型社会から分散処理型 社会へと歩むべき道筋の妨げとなっている。そして集中処理型社会の限界はすでに明らか なのである。
 現代のさまざまな高度で複雑な問題を解決するためには、多様な発想や能力のネットワ ーク・プレーが絶対に必要であり、かつ、その多様性を編纂し練り上げていくリーダシッ プが欠かせない。全体主義的なものを崩していく一方で、モラルとリーダシップを育んで いくという至難の過程が大きく横たわっている。その取り組みにはたいへんな時間と労力 を要することだろう。
 このように、コンピュータの発達−コンピュータ・ネットワークの発達というものを、 単なるテクノロジの発達とか利便性や効率の向上といった問題からではなく、その本質的 な部分のイメージについて、大衆レベルでの理解や消化のされ方というものから考えてい くことが大事なのではないかと考えられる。コンピュータという、ある時はモンスターの ように見え、ある時は友達のように振る舞うこの不思議な機械に対して、どのようなイマ ジネーションを抱いて接するか、ということである。わが国には膨大な数のコンピュータ があるが、それを使いこなしていくイマジネーションというものがまるで不足しているの ではないか、と思えてならない。コンピュータ社会論というものについて、幅広い論議が 活発になされていくべき時がきている。
 それにしても、今やコンピュータは答えを出す機械というよりは、さまざまな問い掛け を発信している機械だと思える。やはり不思議な機械ではあるが、その不思議さはきっと 人間の不思議さの透かし絵なのだろう。
 再び映画、『AP0LLO 13』のこと。
 昨晩(11月29日)、NHKの特集番組(「新・電子立国 驚異の画像」」)で、この映 画の特殊撮影シーンに用いられている最新のコンピュータ・テクノロジと、コンピュータ に映像を扱わせることに執念を燃やしてきた研究者が紹介されていたのを興味深く見た。 従来の模型特撮では決して得られない実感的な描写を可能にしたのは、このような映像を 作りたいというしっかりしたイメージがまず先にあり、次に、これを表現するためのそれ ぞれのパートを、プロフェッショナルな技術者が分担し、最後に責任者が合成して完成さ せていくという、極めてシステマティックな映画づくりへのアプローチである。こういう ところを見せられると、テクノロジに弱い大衆芸術家、などとはとても言っていられない 。とともに、日本の映画界をふりかえってみると、ただコンピュータを使って何かをする ということ以前に、映画製作の全体のプロセスについての構成力=これまたイマジネーシ ョンというものが、まったく隔絶してしまっているような気がしてならなかった。
 『APOLLO 13』は、こんなふうに考えはじめると、実に多くの今日的テーマを 孕んだ映画である。いろいろな視点からあれこれ議論のネタの尽きない映画表現のこの多 様性というものは、やはり楽しいものである。映画はやっぱりイマジネーションを育てる 夢のゆりかごなのである。

おわりに

 私がコンピュータ・ネットワークについて深く考えるようになったのは、私立大学連盟 の学術情報支援サービス分科会で、テキストの執筆・編集に携わるようになってからであ る。『ネットワーク時代の学術情報支援』(開成出版)というこの冊子を今月、やっと上 梓することができた。執筆の一部は本図書館学講習の講師としてもご一緒させて頂いた 菅原通先生(前早稲田大学図書館調査役)との共著 であり、先生にとってはこれが遺稿とな った。この場をお借りし心よりおくやみ申し上げます。




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