映像理論研究作品
   Camera Ubiquity〜カメラの遍在性〜

上映時間 11分  ジャンル 教材

 カメラユビキティ(Camera ubiquity)とは「カメラの遍在性」のことである。「遍在性」とは、遍く存在するという意味で、映画におけるカメラユビキティとは、映画が提示しようとする場面において、カメラはどこにでも存在でき、どこからどのようなアングルを撮ることも了解されているという意味である。これは映画言語におけるきわめて重要で、かつ無意識的な原理であり黙契であるが、あまりひろく理解されているとは思われない。そこで本研究では、この概念を的確に把握し、理解を促すための教材開発をおこなった。また、カメラユビキティの概念を拡大していくことで、映像表現の物語性について考えることができることを明らかにする。本研究により、カメラユビキティには、つぎのような原理があることがあきらかになった。

  原理1:カメラはどこにでも存在でき、かつ、どこにも存在しない。
  原理2:カメラの存在は、物理的な制約を受けない。
  原理3:カメラは出演者にとって無きものである。
  原理4:カメラの視点は観客の意識の視点、すなわち物語の視点に一致する。

 このような概念把握のために11分の教材ビデオ番組を制作し、DVDにまとめた。複数の学生の被験者に試写したところ、カメラユビキティという言葉の意味や概念が、正確に理解できたとの感想が得られた。以上のような研究成果から、「カメラユビキティ」の概念をわかりやすく敷衍していくことにより、映像製作教育に有効に用いたり、映像コミュニケーションの本質的理解を深めることができるものと考えられる。

 本作品は、以上の研究目的のために2003年度伊藤ゼミ全体作品として制作され、2003年9月5日、Hanyang Institute of Technology(韓国・ソウル)に於ける2003KAEIB International Symposium and Conference “Educational Media in Schools”(韓国教育工学会・日本教育メディア学会共催)にて、伊藤敏朗の研究発表「Development of the teaching material for“camera ubiquity”」において上映された。(プロシーディングpp.65-74)


<スタッフ>
脚本・監督
編集 
撮影 
 伊藤敏朗
 間瀬夢子
 関浩二/今井広一
<キャスト>
劇中劇登場人物(女)
劇中劇登場人物(男)
劇中劇監督
劇中劇カメラマン
劇中劇カメラ助手
劇中劇特機
劇中劇音声
 間瀬夢子
 佐藤大介
 川村崇博
 関浩二
 川邊将司
 串形茂
 江上秀行

画像付日本文シナリオ HTML版/ Word版
画像付英文シナリオ HTML版 / Word版
研究本文英文 HTML版/ 研究本文英文 Word版

▼本編の内容と各パートのMPEG1動画像データ(各60秒〜90秒)

カメラの遍在性とはなにか
映画の1シーンのなかで、それぞれのカットを撮影しているカメラは、どこにあるのかを考えてみる。ある男女が向き合って対話をしているとき、最初のカットで男性から女性のほうを撮影しているとき、そのカットを撮っていたカメラは女性のほぼ正面にある。カメラがずっとその場所にあるのなら、次に撮影方向をきりかえして、女性から男性のほうを見たときは、ここにカメラが写ってしまうはずである。ふたたび男性から女性のほうを撮影した場合、やはり女性の横にあるカメラが見えてしまうだろう。しかし実際には、カットがかわるとカメラも移動しているので、そこにあったはずのカメラ自身が写ることはない。映画の中では、カメラは自在にポジションをかえることができ、またカメラそのものが写ることはない。映画において、カメラはあらゆる場所に存在することができる。これはカメラユビキティ、「カメラの遍在性」といわれている。

カメラユビキティによる映画表現の発達
映画のごく初期の時代には、芝居のステージを観客席から見ているように、カメラポジションは一定だった。カメラの場所は動かず、カメラの前で役者たちが動いていました。画面のなかの人物のサイズも同じおおきさで写っていた。映画表現の発達につれて、観客をより物語のなかに没頭させることができるようなカメラポジションがとられるようになった。それぞれのカットを、カメラは自由自在に場所をかえて撮影する。もちろん、カメラ自身はどのカットにも写らない。カメラはどこにでも存在することができ、それでいて、どこにも存在しない。しかし、そのようなカットが編集でつなげられたとき、この物語全体が、観客にはよく理解できる。カメラユビキティとは、こうした映画表現を成立させるうえでの重要な原理である、ということができる。

カメラは物理的限界を超越して存在できる
カメラユビキティという原理のもとでは、カメラは物理的な限界を超えた場所に存在することができる。ある部屋のなかで行われている会話を撮影しようとする場合、本来の部屋の広さのなかにカメラを置いて撮影しようとすると、そこで実際に撮ることのできる構図は、ひじょうに制約されたものになってしまう。しかし、セットの壁の一部がとりはずされていて、カメラを本来の部屋よりも外側の空間に置くことができれば、ひとつの画面のなかに部屋全体をとらえることができ、人物の位置関係を的確に説明することができる。また、映画では、部屋にいるのが男女二人だけという設定で物語が進んでいくように見えても、実際のスタジオには、出演者だけでなく、カメラマンやスタッフが大勢いる。しかし、できあがった映画のなかでは、この部屋にいるのは、二人だけであると理解される。こうした表現が成立するのも、映画の約束事であるといえる。映画の観客は、このようなきまりごとを前もって教わっているわけではないが、このような映画表現を、ごく自然なものとして受け入れている。

カメラポジションの変化で物語りを伝える
カメラユビキティの原理を用いることによって、映像表現がより的確なものになることを確かめるための実験映像を見てみる。舞台を見ているかのように、カメラポジションを一定の場所から、一定方向だけに向けてみた表現から、観客がくみとれる物語には限界がある。カメラにたいして後姿になる人物の表情や行動はわかりにくくなる。カメラポジションを大胆に動かして、女性の表情を正面から撮影したカットを使ってみると、観客は物語の新たな展開を理解することができる。

構図にあわせてセットの背景を足し込む
人物の動作を、カメラが動くことによって、追いかけるということもできる。カメラはドリーやクレーンの上に載って、部屋の壁や戸棚の中などの物理的な制約をも超越して、位置や高さを変化させることができる。このように、カメラポジションは、物理的制約を超えて、つねに映画の物語を表現するために最適な場所をとることができる。これがカメラユビキティの原理だということができる。

カットが加わることで物語はふくらむ
女性の動作のカットの間に、彼女を不審な目でみつめる男性の表情のカットを挿入することによって、さらに物語の表現がふくらむ。男性の表情をとらえるために、カメラは低い位置から男性を見上げてる。カメラが床よりも低く置くことができない場合、人物のほうの高さをかさ上げすることで、このようなアングルを実現することができます。また、人物の背丈をカメラの構図にあわせるために、台の上に立たせるなどの工夫(セッシュと呼ばれる)が行なわれることもある。これらも、カメラユビキティの原理の応用であるといえる。このようにカメラユビキティの原理を用いることで、的確な映像表現が可能となり、表現の幅がひろがる。

カメラの動きによって感情などを表現する
実際の映像表現では、カメラは物語をより理解しやすくするための的確なアングルを選んだり、情感を高めるために移動したりすることもある。このような移動装置を使い、スタッフが協力して操作することで、映像表現の効果が高まる。このように、映画の物語を、より的確に伝えるためには、カメラをどこに置くのか、どのように動かすのかということが、たいへん重要なポイントになることがわかる。こうした映像表現について考えるうえで、カメラユビキティという概念をよく理解しておく必要があるといえるだろう。

[解説]
カメラユビキティ(camera ubiquity)の概念把握とその映像制作教育への援用に関する研究

カメラユビキティ(camera ubiquity)とは「カメラの遍在性」のことである。「遍在性」とは、遍く(あまねく)存在するという意味で、映画表現におけるカメラユビキティとは、映画が提示しようとする場面において、カメラはどこにでも存在し得るということ、カメラをどこに置くこともできるし、どこからどのようなアングルを撮ることも了解されているという約束ごとである。これは映画製作者や観客にたいしてはたらく、きわめて重要でしかも無意識的な原理であり、黙契(もくけい)であると考えることができる。もとよりユビキティには「神はどこからでも見ておられる」という神との黙契といった意味合いがあるのではないかと考えられる。近年メディア・ユビキティとか、ユビキタス・コンピューティングという言葉が盛んにいわれるようになってきたことからも、ここで、この言葉について理解しておくことには大きな意味が生じてきていると思われる。

映画表現において、カメラユビキティは自明なこととして了解されているのだと考えてよいだろう。たとえば、AとB、2人の人物が向き合って会話をしているシーンがあったとする。1番目のカットでは、カメラは人物Bの肩ナメに人物Aを捉えている。2番目のカットでは、「切り替えし」が行われ、人物Bの方向から人物Aを撮影する。しかしこのとき、前のカットでAにレンズを向けていたカメラは忽然と姿を消している。この2つのカットの連続を見た観客が、「さっきまでBの横にあった筈のカメラが、こちらから(Aの側から)見たときには、そこに存在していないのはおかしい。」とは言いださない。3番目のカットでは、AとBを含む室内の全体が写される。AやBの傍らに、やはりカメラは存在しておらず、室内にはAとBの二人しかいないものとしてドラマを進行することができる。二人の言葉や動作は二人だけの秘密になる。この時も(現代の)映画の観客は「ふたりきりではないぞ、そこにはカメラマンがいてお前たちを見ているぞ」などと異を唱えることはない。映画が描きだす空間においてカメラポジションは自由に存在し、かつ、どのカットからもカメラ自体が画面の中に写るということはない。カメラはどこにでも存在し、かつ、どこから撮られても写らない。このような映画言語の文法や約束ごとを、観客が事前に了承していたり、わざわざ学習したりはしているわけではないが、映画の画面展開をやすやすと受け入れ、物語へ没入することができる。

このような映画言語におけるきわめて重要な原理でありながら、これまでカメラユビキティについての議論や解説はまりおこなれているように思われない。映画製作の現場でその言葉が用いられている様子もなく、映画文献や映像制作教育においても、ほとんど触れられることはなかったと思われる。GooやYahooなどの検索サイトで調べても「カメラユビキティ」という語はヒットしない。

しかし実際の映画製作の現場においては、台本のある箇所からある箇所まで、カメラをどこにおいて撮影し、その次はどこからどこまでを、カメラをどこからどのどのように向けて撮るか、ということは最も重要な作業であり、それにしたがって演出や照明・美術の仕事がなされる。映画製作者は、カメラユビキティという言葉を知らないまでも、その場面をもっとも適切に表現することのできるようなカット割をおこない、カメラのポジショニング(位置決め)をおこなってアングルを決定しようとする。このとき、カット割やカメラのポジショニングが適切でない映画は観客にとっても拙いものとして感じられ、そのメッセージを伝えることは困難になる。したがって、カメラユビキティが成立して観客に受容されるということは、具体的には、この「カット割」と「カメラのポジショニング(アングルやフレーム)」が適切だということである。とすれば、カメラユビキティが成立している状態について分析して、その成立要件を明らかにすること、そして、その概念を敷衍していくことは、映画製作者がカット割やカメラのポジショニングを適切におこなうための重要な基礎知識になり得るのではないか。映像制作教育のある段階において、この概念把握を的確におこなうことができれば、学習者がカット割やカメラのポジショニングというものを、より科学的で合理的に行うことに役に立つのではないか。本研究は、このような「カメラユビキティ」の概念把握と、その映像制作教育への援用の手法について解明したものである。

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