ヨーロッパ国際学会に参加して

柴 理子

 

924日〜26日、フランスで開催された国際南東欧研究学会の第10回大会に参加しました。国際学会としては小規模ですが、南東欧すなわちバルカン研究の代表的な学会です。これまではバルカン諸国の持ち回りでしたが、今回は本部が置かれているパリでの開催となりました。参加者は前回2004年のティラナ(アルバニア)大会の約半数にとどまり、世界的不況の影響も感じさせました。

会場は、アナール派歴史学の研究などで名高いフランス国立社会科学高等研究院(E.H.E.S.S)。さぞ重厚壮麗な歴史的建造物と思いきや、意外に簡素でこじんまりして、同じ建物内にはパリ第6大学も同居しています。
 理学・医学系のパリ第6大学は、校名にキュリー夫妻の名が冠されています。正面玄関の銀色の校名プレートを目にした瞬間、子どものころ伝記で読んだ、ポーランド出身のキュリー夫人のパリ苦学生時代のエピソードを思い出しました。パリの街は、三分割支配下の故国をあとにしたポーランド人移民や亡命者の足跡が随所に残されているのです。私も思わずポーランド研究者としての興味をかきたてられ、学会の合間の市内見学は、シャンゼリゼもエッフェル塔もそっちのけで、ポーランド人ゆかりの地を訪ねる旅になってしまいました。

          会場入り口                        セッション風景

バルカンという多民族・多文化地域を対象とするこの学会らしさは、何よりもその使用言語に表れています。歴史上つねに大国との関係に翻弄されてきたことの影響もあって、学会の共通言語を決めること自体なかなか容易ではないのです。一応フランス語が公用語とされているものの、アルバニア大会では、報告者が通訳なしで英・仏・独・露などなど各自の得意言語で発表するというセッションまで現れる有様。多言語環境に慣れていない日本人参加者は目を白黒させるばかりでした。しかし、不評だったのはどうやら日本人にだけではなかったらしく、今回は英語での発表がぐっと増え、英語−フランス語の同時通訳がつきました。

     シナゴーグ         ポーランド歴史文芸協会(1832年設立)

 統一テーマが「南東欧における人間と環境」でユネスコ共催となりましたが、どのセッションも比較的少人数でゼミのような雰囲気でした。日本からも
5人の若手研究者が報告に臨みました。日本人研究者はしっかり史料を読み込んだよい研究をしているのですが、「プレゼン力」ではやはり、普段からこういう環境の中でもまれているヨーロッパ組に軍配が上がります。そういう「+アルファ」の部分を磨く必要性も痛感した3日間でした。